2019年11月9日土曜日

赤ちゃんの夢の世界

赤ちゃんの反応を観ていると、彼に観えている世界は、我々にとっての夢の世界のような感じがする。

私が玩具を次々放り投げるため、突然目の前に何かが現れたり消えたり、持ち上げられて、風景が切れ切れになったり、ほぼ連続的な意味は無く泣いたり笑ったりと感情やムードがコロコロ変わる。

何かを眼で追っていても、脳での認識は少し遅れがあるようで、意味が脳内で結像する前に身体の位置をずらすと状況に対する把握が困難になる。

自身の身体の外延の把握も正確ではなく(これは一般的な意味)、言葉も持たないので、物語としては世界を把握できないだろうと感じる。

我々に赤ちゃん時代の記憶が無いのも、そこに自我がないからなのでしょうが、視覚も触覚も嗅覚もそこに無いようです。
全ての感覚器が不安定で安定してないので、まだ人間として機能していないと感じます。

しかし私は我が子を観ていると、どうしても魂なるものがやはりあるのではないかとも感じます。
もぞもぞ動いている赤ちゃんに視えない何かが重ねられている感じがあります。
この漠とした魂の感触がない親が、子を虐待するのではないかと思います。
肉の塊にしか視えないからです。

虐待する親は夢の世界に住んでいるといえますが、その夢は悪夢で、悪夢は身体に方向づけられています。肋骨の問題なのです。
それは自身の身体を肉の塊として認識したその結果です。
赤ちゃんの身体に同調すれば、悪夢からただの夢に移調したはずです。
そしてその夢はその裡、現実へと受肉したでしょう。

肉の前に氣があって、氣が魂を感じるのだと思います。

こういったことを日本人が漠然と思考する時には、横文字を使わずに漠然とした日本語で思考すべきだとも思います。

2019年11月4日月曜日

補食

補食について。
野口整体では離乳食ではなく、補食といいます。
お乳やミルクで足りない分の栄養を補う為に固形物などを食べさせるという考えです。
生後三ヶ月ですでに捕食に入らないと栄養不足になると言われています。

ここで言われている栄養とは、一般的な数値化できる栄養とは若干違います。
赤ちゃんには注意の要求があるので、氣を込めて作る、と。
その氣が大事で、赤ちゃんはその氣を食べるとのことです。

氣とは、端的に言うと主観です。
主観での親子の繋がりです。

野口晴哉の食事観を軽視すべきでない。
食とは、単なる栄養素の咀嚼と消化吸収の問題ではない。
氣を形にする行為と、咀嚼される形から氣を感じる行為、この二つの主観を同調させる文化を、食事と名指す。

とはいえ、その理念が明確な型として成立しているかというと、残念ながらそうでもない。

『誕生前後の生活』『育児の本』は野口晴哉著であり、『子育ての記』は野口昭子著である。
公になっている出版物ではこの3冊くらいしか参考になる本はありません。
一方は、野口先生の観方であり、一方は奥様の観方であり、よく読むと矛盾や言葉足らずがあり、混乱します。

どなたでもそうでしょうが、私どもも、混乱のなかで手探りで育児をしています。

やってみればわかることなのですが、出産と育児は本来的に混乱であり、そうであるからこその創造なのでしょう。

いずれにしても、数字ではなく、氣への集注が、全てだと思います。
それがここまでのところの、出産と育児に於ける私どもの整体の結論です。

2019年11月2日土曜日

変な音

サランラップの芯に口を当てて、もう一方を息子の耳元に当てる。
そして「ぶおぉぉぉおぉぉ」と低い声で音を出して聴かせると、恐怖の表情を浮かべ、凄い勢いで泣き出した。

いかにも怖い不気味な音を聴かせると、本当に怖がるんだな、と思った。
先入観などではない。
やはり誰しも生まれつきに本能的な音感が備わっているのでしょう。

生まれつきのもの、自然のもの、本能的なもの、を否定する思想や芸術には距離を置いて一考すること。

2019年10月29日火曜日

子供が紙で遊ぶ。
折ったり、潰したり、舐めたり、噛んだり。

観ていると、生まれてから始めて加工する材料が紙のようだ。
布は、赤ちゃんには加工できない。
赤ちゃんは、紙にはすごく執着する。掴んで離さない。
形が変形する様を楽しんでいる。
舐めると変色するが、色目の違いはまだ識別できないようだ。

紙が高価だった時代は何を変形させていたか。
きっと植物と虫だろう。

秋なので、せめて枯葉で遊ばせたいが、こういうことは妻が嫌がる。

妻の観察によると、赤ちゃんは遊びの中で学ぶ、とのこと。
大人は理由をつけて学ぶが、赤ちゃんの学びには理由がなく
、遊びたいから遊んでいて、後付で何かを学んでいる。

不可逆に変形していって、そして同時にリセットできる新素材があったら、赤ちゃんはそこから何を学ぶのか。
高価でも、おもちゃとして試してみる価値はあると思う。

2019年10月11日金曜日

足と手、リズム、からの要求

5ヶ月目。
うつ伏せの状態で、右足で、床を、バンバンと叩く。
焦点が腰椎5番に合っているようだった。
そのバンバンがリズムを持ち始めたのは、松田聖子の曲をかけていた時だった。
『制服』という曲に合わせてバンバン右足で床を叩いていた。
それがいつしか両足になり、ついには両手で床をバンバンと叩くようになった。

始めはただのリズムであったが、その手でのバンバンが、今度は要求を表すようになり、「我ここにあり」という風な色彩を帯びるようになる。

太鼓の祖形なのか、手足を動かしたい欲求と、連打によるリズム、というか波の発生の感覚への集注。
大きな音を出すことによる、エネルギーの鬱散。注意の要求。
これらは我々への働きかけであるので、音の裡と父母との間に意味が発生し、また同時に発生したばかりの意味が、音から分離し始めているようだ。
これは言葉の発生であると共に、いまだ現前しない何かを召還する行為でもある。息子は何かを起こそうとしている。
呼んでいるが、対象は現前していない。
呼び起こそうとしている身体が横たわっている。
呼ぼうとしているのは、立姿すべき身体か。

このあたりからあまり泣かなくなった。
泣く、という感情の発露から、動作、音、意味、波、非在、への集注へと身体が変化したと、私はみている。
これが、言葉の獲得への第一歩であるのは間違いない。

足とは立つための器官である前に、音を出す器官と認識するべきだ。
腰椎5番は、型を形成する。
どうやら、口や喉ではなく、足から、音と言葉が産まれるようだ(ただし、それらの音と行為を分節するのは眼と耳であり、分節したのは、息子のではなく、私の眼と耳だ)。
言葉を発生させたのは、脳ではなく、端的に腰椎5番だ。

人間一般はどうか知らないが、私の息子はこの順序で言葉を獲得した。

これは仮説だが、おそらく、人によって言葉の獲得過程は異なるのだろう。
眼から始まったり、手から、髪から、排泄器官からとか、様々なのではないかと思う。
それが、人間それぞれの後々の知能や言語の行使能力に反映されるのだろう。
この5ヶ月の息子の経過を観ていて、言葉の質が、人によってまったく異なる理由を観た氣がした。

この頃、息子は、私ども夫婦が抱っこしながら喋ると、そっと私どもの口に手を当てた。声が口から現れることが不思議なようだった。
また、自分の足を手で持って、それが自分の足であることを、確認して認識していた。

2019年10月9日水曜日

バルトーク

スマートスピーカーに、なんとなく「バルトークの曲かけて」と言った。
かかった曲が気持ち悪くて聴けなかった。
昔はバルトークが好きだった。
私は現代音楽一般、不協和音が好きだった。
子供には「ミクロコスモス」を聴かせるつもりでいた。
ここ最近、不協和音が余り聴けなくなった。気持ちが悪い。
自分で自分に驚いた。

野口晴哉先生が調和の感覚を教えるためにお腹のなかの胎児に音楽を聴かせるという話があるが(きっとバッハとかであったのだろうと思うが)、それを昔の私は保守的だと思っていた。
調和の感覚、なんて嘘くさいと思っていた。
野口先生は19世紀の人だ、と思っていた。
自分は21世紀に生きている、と。

かつてのより、現代の不調和を調和とみなす感覚の方が進歩していると思っていた。
だかしかし、今ではやはり調和という感覚は太古より不動で普遍に偏在している、と認識を改めた。
それは、古びることなく、いつまでも、ながらく、ずっと存在し続けている。

たんに、調和、が正解で、不調和、は間違い。
音響に於ける狭義のハーモニーの話ではない。

野口先生は、時代の制約ではなくて、最初から身体感覚で本当の調和を実際に知っていた、ということなのだと思う。

四十を過ぎてやっと、自分が自分以外の存在と共鳴して別の存在に変容する、という感覚に合焦することができた、と感じる。
目でなく、耳と、皮膚と、皮膚としての目、が変わったのでしょう。
赤ちゃんには強烈なるカリスマ性があります。
赤ちゃんが基音になり、そのうえにすべてが積みあがっていきます。

2019年9月18日水曜日

赤ちゃんの求めるもの、3つ

赤ちゃんの求める3つのこと。

お腹が空いた。
おむつが濡れた。
身体の位置が悪い。

それぞれ泣き方でわかると野口先生はおっしゃっていて、そんなことが本当に自分でわかるのかな、と思っていたが、実際に赤ちゃんと毎日一緒に過ごしていると、大体わかるようになる。

また、この3つの泣き方がじょじょに、わかりやすく変化していく。時間の経過とともに。
まるで原初のことばのように、泣き方が明瞭に分化していった。

最初の裡は頑張って布おむつにしていたが、この頃はよく泣いた。布おむつは小便をすると気持ち悪いのですぐに泣く。
夜中に何度も起こされた。
途中で梅雨になり、おむつが乾かなくなったこともあり、紙おむつに変更したら、泣かなくなった。
最新の紙おむつは一度や二度小便をしても、サラサラなので、気持ち悪くならないようで、あまり泣かない。
この事実は軽いショックだった。
紙おむつによって、母親の負担は大分軽減されたと思うけど、自分が小便をしたことに気が付かない、という感覚の鈍磨は教育上正しいのだろうか、と悩んでしまう。

とはいえ、布おむつにも、欠点があり、それは足がM字のまま固定されてしまうので、股関節に余分に負担がかかるということ。
最近の紙おむつは足が伸ばせる。
布おむつの時は、おむつを外した瞬間に、うーん、と足を伸ばして必ずのびをしていた。
紙おむつは普段からわりあい自由に足を動かしている。

もし、私がどちらをとるか助言するとしたら、余り氣張らない方がいいですよ、と。
先はまだまだ長いので、氣楽に……。

2019年9月17日火曜日

身体操作の偏移

子供。
産まれてから、最初左右型のように振舞う。
左右体癖かどうかはわからない。
しかし、寝返りをうてるようになってから、左を上にして眠ることが多い。人間は通常重心側を上にして眠るのですが、立姿はおろか、ハイハイもまだなのに、左重心という表現が正しいのだろうか。
消化器がよく働くがために、腰椎2番と4番に特徴のある左右の動きが出ているのかもしれない。

そこから、上下的になる。
上下的、というのは3ヶ月頃から、首が座り始めるところで、うつ伏せになって首を持ち上げる動作がそれで、この動きでは腰椎1番を緊張させることになる。
自らの意思でうつ伏せになる時に、始めて上下の感覚が生まれている。観察していたら、うつ伏せになった赤ちゃん自身に驚きの表情があった。
上と下の感覚がここで始めて生まれる。ということは、この時に眼が身体と連携して、脳内に浮かんでいる映像と身体の動きが連動しはじめたといえるのだろう。
また、これが、首を意識的に動作させるところと腰椎一番の緊張と眼の動きとも連動している。
どうも、この時期に上下型がよく動作させる部位が発達するようだった。

野口先生が『育児の本』で書いているが、うつ伏せで寝るときは頭が疲れているから、実際にこの時期からよくうつ伏せで眠るようになる。
しかし、うつ伏せのまま、深い眠りに入ると、呼吸器が未発達のため、突然呼吸が停止して突然死することがあるとのことを、この間の4ヶ月の健診時に助産師さんに聞いた。
うつ伏せと喫煙はデータ上間違いなく、突然死と関係しているとのこと。
うつ伏せで眠っている時は、横向けにするのが突然死を避ける為の方法であるとのこと。

それにしても、我々からすると、寝ている子供を横にするのは氣が引ける。
自然な活元運動による、偏り疲労の調整を阻害することになるから。すぐ横向けに直したら、頭の疲労が取れないだろう。
しかし、やりたくないが、それなりにやっている。
死なれたら困る。

うつ伏せで顔を前に向けた体勢になってはじめて、眼が前を向く。
この時、前後の感覚が生まれる。
ここではじめて、左手で自分の後頭部を掻いた。
前と後ろ。
眼と首を使って、左右と上下と前後を視野に入れる。
その時、足は何のためにあるのか、と感じているようだ。

2019年9月14日土曜日

感情は身体の特定の部分で感じる

子供が産まれた後に来てくれた助産師さんは優秀な方で、看護師の資格も持っていた。
話を聞けば、すぐに頭がよくて身体も頑健であるとわかった。剣道と空手を子供の頃からなさっていたという。

自分は最初病院の産婦人科に勤務していた経緯から、急変する赤ちゃんをたくさん見てきたので、出産はなめられない、というような感じだった。
将来助産院で働きたい、と言ってくれる看護学生はうれしいけど、最初は絶対に病院で働いた方がいい、とも。でも、一度病院で働いて急変するたくさんの症例をみると、怖くなって、助産院では働けなくなる、とも言っていた。

この方に、我々は出産後、少し疑われた。
自然派育児、みたいな人たちの中には、陣痛の時間などをわざと助産師に嘘をついて、自分達だけで出産を行うようなグループがいるそうで、我々も整体式で産む、と言っていたので、その手なのではないのか、ということで疑われたのですが、さすがに私も、41歳の初産の妻の出産を自分一人だけで仕切る度胸も技術もないですよ。

とはいえ、どう考えても感じても、夫婦だけでの出産になったのは、息子が、我々以外の人間の手を介在させることを嫌がったからだ。それ以外の理由は存在しない。
この日しか、親子三人での出産になり得なかったから、早めに息子は出てきたんだろう。
普通の人にこの感覚がわかるものなのかわからないが、息子にとっては、産まれてから始めに触れて欲しかったのは私だったんだろう。
お腹にいるときにずっと愉氣していたからわかる。
263日以前に生まれると早産なのだが、数字などどうでもいいのだ、とこの時に直感した。
早産か否かなどたいした問題ではない。
感覚的に通じ合っているかが最重要。
自分からこの世界に出て来るんだ、という勢い。
意思などではなく、勢い。言葉も思考もないのだから、勢い以外にはなにももたない。
勢いがあるなら、数字を無視してよい。
これが整体の原理。
私はこれを感じた。
息子は私にこれを教えたかったんだろう。

それはともかく、この助産師さんの言うことで感心したのは、感情は身体の特定の部分で感じる、という言葉。
ずっと、抱いていて、自分の身体から乳児を離すとき、赤ちゃんは、胸と足で恐怖心を感じるから、胸と足は最後にゆっくりと自分の身体から離すこと、と生まれたばかりの息子を抱いて、布団に降ろして寝かせながら我々に説明した。

2019年9月9日月曜日

股関節

息子の両足を、胸に向けてぐーっと折りたたんで近づけると、左が弛い。
これは産まれた時から。
立ち歩きを始めますと、この弛い方の股関節が、逆に固くなる、と言われています。

岡島瑞徳先生の平成17年6月12日の中等講座の第3講に於いて、男と女の股関節の問題が語られています。
ここで岡島先生が発見された、男女の股関節の相違に関する仮説を野口先生の高弟であった吉田順平先生に電話で聞くと、整体では昔からそういうふうにいわれている、とおっしゃったというくだりは、ちょっと面白いです。
楽屋落ちみたいな面白さなのですが、一生懸命整体を研究して、新発見した、と思っても、元々そう伝わっているよ、と言われてしまう世界なわけです。
しかし、自分の力で発見するのと、最初から懇切丁寧に教わる、というのはかなり違うことなわけなのですが。

それはともかく、産まれた時からの股関節異常は、栄養状態がよくないからだ、と野口先生の『育児の本』には書かれています。
これを治すには13ヶ月までの栄養がすべてであり、この期間に栄養を満たさないと、その後にどんなに栄養を与えても、もう満ちることはないとのことです。