2019年8月15日木曜日

大人並みに話しかける

むしろ、腹の中にいた時はそれなりだったけれども、赤ちゃんに対し、大人並みに話しかける、ということは出来てない。

野口先生は赤ちゃんに対しても、大人並みに話しかけてから、行動していたという。

目の前に、小さい、言葉が正確にわからない人がいて、手がかかるという状況だと、いちいち大人にするように、言葉で説明してから、行動に移すということは、非常に難しい。

やってみればわかる。寝不足で、疲労が積み重なっていれば、それはかんたんなことではない。

子供が産まれてからわかったことだけど、本来、子供とは夫婦二人だけで育てるようには出来ていない。
もう少し大きい単位の家族で育てるものだと思う。
理屈はいらない。
そう出来ていることは、自分で育ててみれば実感できる。

伝統的な家族形態を破壊し、忙殺される核家族のその間隙に、隙を突いて、さまざまなものやことやが入り込んでくる。
それは強制ではないが、他に選択の余地は無い、というあり方で、強制される。

一番必要なのは時間だが、時間を金で買う、という発想に至ると、すべてそこで手詰まりとなる。
そもそも、国際金融資本によって、時間と言葉の意味が一元的に管理されているので、さらに逃げ場が無くなる。

こういうことをぶつくさ子供に、独り言のように話していると、妻に怒られるわけだが、私がしたいのは、息子を大人並みに扱うということだから……。

2019年8月14日水曜日

263日か273日かの問題

2018年10月3日の本ブログの記事に於いて、受胎から出産までの日数の問題を書きました。

その受胎から出産までの野口整体に於ける、正規の日数ですが、過去の資料を調べていて確認がとれました。

昭和46年1月14日の「受胎、妊娠の問題」という整体操法講座の講義録を拝読いたしましたら、38頁に「やはりちゃんと二百七十三日いないと駄目なんです」とあります。

これは野口晴哉先生の言葉ですので、すくなくとも昭和46年までは胎児は最低273日間お腹の中にいることが正規の日数であり、これより早く産まれた場合は早産であると、当時の整体協会に於いては規定されていた、といってよいでしょう。
それが岡島瑞徳先生が、整体協会で教わっていた時期には263日になんらかの理由で改められたようです。

どちらの日数が正しいのか、誰が日数を変えたのかは、正直言ってもうどうでもよくなりました。
何故なら、私の息子は263日に達する前に生まれたからです。
ただ、私の気質として、正しい日数がわからないと気持ち悪かったので、個人的に納得できてよかったです。
この問題はこれで終了いたします。

2019年8月13日火曜日

赤ちゃんを抱いて歩くと

息子を抱いて歩くと、股関節が引っかからない。
私は捻れ体癖なので、股関節が狂っている。
捻れ体癖の人は皆、股関節が狂っている。

息子を抱きながら歩くと、足がすいすい前に出る。
足が中心に向かう。
何故だろうか。

私の身体が自動的に息子に同調するため、かんたんに鳩尾が弛み、大切なものを落とさないように腹の前で抱えるので、自然に腹部第3(丹田)に力が満ちる。

捻れ体癖だから、腰椎3番の捻れは取れないものの、余分な力みが抜け、左股関節が弛むようだ。

何も稽古していないのに、歩法が変わる。

始めはそれを喜んでいて家の中を調子に乗ってうろうろ歩いていました。そうしたら、またじょじょにおかしな歩き方になってきた。

そこで、師匠の操法を受けたら、左手首の狂いからくる、左骨盤の後屈ということで、足を払われた。

抱っこするときに、赤ちゃんは、こちらの抱きやすいように抱かせてくれない。
抱いて欲しいように抱くから、こちらの手はおかしな形になる。
気付かないうちに無理がきて、左の手首が狂っていた。

少なくとも私の息子はものすごく厳密に角度がある。
外から人が来て抱っこされると、困った顔で私に助けを求めてきたりする。

息子が崩れると、私も崩れる。
私が崩れると、息子も崩れる。
間に、操法が介在する。

2019年8月6日火曜日

初めて触れたのは

我が子が産まれて初めて触れた人間が私である。
生涯に渡り我々の生に浸透していく感覚がそこにある。

妻は息子を立ったまま産んだ。
私は、頭を出した息子に、手を差し出した。
床に落下しないよう細心の注意で息子の頭を支えた。
妻が産み落とした、息子を、私が受け止めた。
急なことで、手を洗っている暇など無かった。

その時の息子の頭の感触はいまでもはっきりしている。
その光景も感覚の裡にある。

息子が初めて触れられた相手の手が、ゴムの手袋をしていたのでは可哀想だと思う。
自分の出生時がそうだったからそう思うのか。
私自身は早産で、産まれてすぐに母親から隔離された。
そんなことは記憶にないが記憶にある。

母体が仰向けで出産するのは本来ノーマルではないのだろう。
産み落とす、取り上げる、というのが本来なんだろう。
あの時、息子を落とさないで、取りこぼさないで、取り上げられたのは生涯の自慢である。

産まれてからも、息子は、私が抱くと、私を前面的に信頼して、身を預けてくれる。
まったく不安や恐怖を感じていなかった。

息子は、自分を母体から地上に取り次いだ人間が誰だか明確に知っている。
最初に、安心を、私が知らせた。
この事実は我々の残りの人生に多大な影響を与えるだろう。

2019年8月4日日曜日

布おむつ

最初は完全に布おむつだった。
意気込んでいたので。
夜にも2、3時間ごとに起きて、おむつを替えていた。
紙おむつと違い、布おむつは、赤ちゃんのお尻を拭いた後にも、うんこを洗い落とさないといけない。眠い目をこすりながら。
これは本当にきつかった。
また、起きる度ごとにミルクを飲ませる。

あまりにもたいへんなので、2ヶ月位から、紙おむつを併用にした。
うんこしそうな時は紙おむつ、うんこ直後からしばらくは布おむつ。

凄く楽になり、今までは何だったのか、と夫婦で笑った。

梅雨になり、布おむつは乾かないので、完全紙おむつに移行。
超かんたん。

赤ちゃんが触れる最初の感覚は、科学的につくられた合成繊維ではなく、綿がよいと思っていた。
いまでもそう思いますが、それよりも、エネルギーを割くべき、もっと大事なことがある、とも思います。
頑張りすぎはよくない。

エネルギーは有限なので、配分を間違えないようにしないと、肝心なところでミスが生じます。

とはいえ、最初期に触れた衣服が、合成繊維でなくてよかったと思います。
その感覚は潜在意識に入ると思う。