2020年8月31日月曜日

住んでいるマンションのエレベーターホールの天井に巨大なゲジゲジがいた。

息が止まるかと思った。

「虫」でなくて「蟲」という感じ。


天井を見上げたその瞬間、両肩が持ち上がり、頸が短くなる。

ムチ打ちになるかと思った。

骨盤と股関節がギューッと締まって、身長が縮んだ。


一瞬で9種の体勢になったわけなのですが、こういうことが身に起きると、体勢というのものをやはり考えてしまいます。


体勢という観点がないと、瞬間の生命の煌めきのようなものを取り逃すような氣がします。どんな体癖の人でもある瞬間に、その体勢を組む、ということはあるわけで、体癖という視点だけ与えられると、身体というか生命を単純化してしまうように思います。

2020年8月27日木曜日

意外

公園に行って子供を遊ばせてます。
多くの方々が子供を遊ばせています。

ネットとか見ますと、怖い話が色々出てきますが、実際には、今までのところ、良い人々にしか遭遇しておりません。

子供たちも皆、良い子たちです。
外国人も多くいますが、皆常識的な方々です。

子供たちもちゃんとした言葉で話しますし、躾も行き届いていて、皆さん立派だなと思います。

私は貧乏人がたくさん住んでいる巨大な団地で育ったのですが、自分の記憶では、公園は少し氣が抜けないというか、常に変な人間がうろついているというイメージでした。

今と違って、団地の設計が凝っていて、死角などが多かったので、表ざたになっていない犯罪も多かったと思います(一度大きく改修されて死角が消えて平坦になった)。
普通に14階建ての団地の屋上とかに出れますし、そういうの今の感覚だとやばいですよね。

皆で遊んでいたら、上の方でシンナー吸ってた人がラリって落っこちてきたとか(手すりに腰掛けて吸っていて、そのまま後ろに落っこちたそうですが)、野球してたら、何故かボーリングの球が落ちてきたとか、当時はそんなもんかと思ってましたが、少し怖いですよね。

でも、隣り合う14階建ての2つの団地の屋上に2グループでそれぞれ出て、そこからビニールのボールでキャッチボールしたりとか、楽しい思い出もあります。
携帯とかスマホがある時代にこういう遊びはしないと思う。

時代も違いますから、常識も今と違いますが、子供というのは、どんな環境でも工夫して遊ぶものですね。
それにしても、昔は子供がたくさんいましたから、兎に角すべてがいい加減でした。
学校でもよく殴られましたからね。

私は子供に「学校に行きたくない」と言われたら「行かないでいい」と言うと思います。

2020年8月4日火曜日

テレビ

子供にテレビを見せる親を少し軽蔑していましたが、考えを改めました。

1歳児はこちらが料理をしていても、洗濯をしていても、何の作業をしていても泣いて付きまとってきます。
一人で遊んでいてくれません。
兄弟や親族など、面倒をみてくれる人がいない場合はとても困るわけです。

こういう時、テレビはとても助かります。
録画してあるお気に入りの番組を見せますと、その間はおとなしくしてくれています。
とはいえ、親はその間に楽をしてるわけではなく、何かしらの仕事をしているのです。

テレビやスマホを子供に見せている親のすべてが、楽をしたくてそうしているわけではないのです。
むしろ、近所に爺さん婆さんが住んでいて、子供を一時でも預けられる親の方が、息抜きをする間が与えられます(それでも、その両親はそれほど楽ができる訳ではないです!)。

それにしても、こういったことは育児を自分でしてはじめて知ったことです。
やってみないとわからないものです。

自分では何もやっていないのに気軽に他人を軽蔑するのは止めようと思った次第です。猛省。

ところで、野口晴哉先生は育児をしたのだろうか、という疑問が頭をもたげます。
時代的に、父親が育児をしただろうか。
息子さんとお孫さんの整体指導はなさったのでしょうが、育児をしたとは言えない氣がします。

まあ、天才はしなくてもいいかもしれませんが、凡人はすべきです。



2020年8月2日日曜日

1歳ほどの私の息子が最初に踊り出した時、膝で踊った。
全身では踊らなかった。
以後、腰椎3番で捩じったり、腰椎2番で左右に身体を振ったりして踊る。
それでもとにかく、膝を中心にして踊る。

観ていて、少しづつ膝のこと、身体の繋がりがわかってきた。
膝蓋骨の上がり、膝裏の弛み、足首、股関節、腰椎3番。
これらは骨盤、生殖器への集注。

はたして弛んでいく方向の舞踏は存在しているのか。
弛む方向の動きはもはや舞踏とは呼ばないのではないだろうか。

衰弱に端を発する動きを人は何と呼ぶのだろうか。

活元運動は、積極的な舞踏にも、消極的な舞踏にも成りうる。
消極的な方は、とても人様に御見せ出来ないので、皆で瞑目して行うのだろう。

とはいえ、もともとが健康になりたいというような願望は消極的なものだ。その動きが、修養の中で積極性の動きに転換するのであれば、そこが生命の醍醐味といえるのだろう。