5ヶ月目。
うつ伏せの状態で、右足で、床を、バンバンと叩く。
焦点が腰椎5番に合っているようだった。
そのバンバンがリズムを持ち始めたのは、松田聖子の曲をかけていた時だった。
『制服』という曲に合わせてバンバン右足で床を叩いていた。
それがいつしか両足になり、ついには両手で床をバンバンと叩くようになった。
始めはただのリズムであったが、その手でのバンバンが、今度は要求を表すようになり、「我ここにあり」という風な色彩を帯びるようになる。
太鼓の祖形なのか、手足を動かしたい欲求と、連打によるリズム、というか波の発生の感覚への集注。
大きな音を出すことによる、エネルギーの鬱散。注意の要求。
これらは我々への働きかけであるので、音の裡と父母との間に意味が発生し、また同時に発生したばかりの意味が、音から分離し始めているようだ。
これは言葉の発生であると共に、いまだ現前しない何かを召還する行為でもある。息子は何かを起こそうとしている。
呼んでいるが、対象は現前していない。
呼び起こそうとしている身体が横たわっている。
呼ぼうとしているのは、立姿すべき身体か。
このあたりからあまり泣かなくなった。
泣く、という感情の発露から、動作、音、意味、波、非在、への集注へと身体が変化したと、私はみている。
これが、言葉の獲得への第一歩であるのは間違いない。
足とは立つための器官である前に、音を出す器官と認識するべきだ。
腰椎5番は、型を形成する。
どうやら、口や喉ではなく、足から、音と言葉が産まれるようだ(ただし、それらの音と行為を分節するのは眼と耳であり、分節したのは、息子のではなく、私の眼と耳だ)。
言葉を発生させたのは、脳ではなく、端的に腰椎5番だ。
人間一般はどうか知らないが、私の息子はこの順序で言葉を獲得した。
これは仮説だが、おそらく、人によって言葉の獲得過程は異なるのだろう。
眼から始まったり、手から、髪から、排泄器官からとか、様々なのではないかと思う。
それが、人間それぞれの後々の知能や言語の行使能力に反映されるのだろう。
この5ヶ月の息子の経過を観ていて、言葉の質が、人によってまったく異なる理由を観た氣がした。
この頃、息子は、私ども夫婦が抱っこしながら喋ると、そっと私どもの口に手を当てた。声が口から現れることが不思議なようだった。
また、自分の足を手で持って、それが自分の足であることを、確認して認識していた。