2017年9月21日木曜日

10年前の歯の打撲の操法

突如はじまる、内々での操法。
師匠の解説を受けながらの見学。

胸椎10と5で動いて腰椎2・3間と左股関節を弛めようという動き。
右重心なのに、左に変動が出るのはおかしいとずっと思っていた、とのこと。
理由は歯の治療、インプラントから舌の動きが悪くなり、そこから消化器にきて、ポリープを作っていたのではないか、と。

操法の実際のところは、あまりに専門的になり長くなるので、省く。

10年前の打撲の硬結だよ、と言われ、愉氣してみたが、わからなかった。

終わって、施術の対象とされていた方に、お二人(私と妻)の時間を取らせてすみません、的なことを言われたが、私たちは操法を観てるだけで楽しいので逆に恐縮してしまった。
勉強になりました。

2017年9月14日木曜日

『整体操法読本巻四観察の書』

個人的なメモ。

観察という概念は野口整体の中にしかないと思う。
西洋医学の観察は客観が主となるが、整体の観察は主観が主となる。
すべて指にて会すことである。
ここに書かれていることは、思想としてのみ取り出しても、とても高い重要性がある。

「整圧の構造」では身体操作として凄まじく高度な運動が、明確に言語化されている。
下手なりに操法をしている身としては圧倒された。
技術的にとても勉強になりました。

『整体操法読本巻三各論』

個人的なメモ。

本巻は各身体部分の操法の解説。
部分となると、師匠の師匠である岡島瑞徳先生のまとめ方は過不足なく合理的で無駄なくまとまっていた。
師匠から受け渡される岡島先生の残された講義録は、私にとって本当にありがたいものである。
この時代の野口先生の観方であり、また山口県での講習のために急遽執筆されたようで、それほどは深く入り込んだ記述ではない。

後語において、野口先生が整体の本義において熱く語っておられる。
この頃とは地球の生活環境も日本の法律も、大きく変わってしまった。
野口先生がここで語っておられることを、直接的におしすすめることは現在においては、もはや不可能だろう。
そこは素直に認めるしかない。
やれることをやるしかない。

2017年9月12日火曜日

百足

寝ようとしたその瞬間、妻が百足に噛まれた。
右足の2指が腫れていた。
化膿活点に愉氣をする。
私の感じでは、硬結というほどのものはなかった。
噛まれたところも直接愉氣。

そのまま寝て翌日起きたら腫れはひいていた。

道場でその話をすると「どんなところに住んでるんだ」と皆に笑われた。

2017年9月10日日曜日

父と妻の操法

足首を骨折した父に操法をしに、実家に帰った。
骨折にのみ焦点をあて行った。
骨はもう繋がっている。
基本的に腰椎5番と足首、そして目への愉氣が中心となる。
父は途中で寝てしまった。

翌日師匠に報告すると、「腹で仕上げる」と言われる。以前も言われたことだけど、今回は言われたことがぴんと来た。

朝の稽古で太陽フレアによる中毒状態の妻への中毒操法を師匠の前で行う。
一連が終わり、背骨の観察をするが、変化をしていないと指摘される。

そして稽古後の予約にキャンセルが入ったからと、そのまま延長して、師匠が妻に中毒操法を行う。
まったく、無駄のない動き。
無駄な力が何処にも入っていない。
「中毒操法はサラサラできないと」と言われる。

終了後、背骨を触ると、もう、中毒の身体ではない。
中毒がつながっていたのは、胸椎11番で、この中毒が排卵に影響を与えていたとのこと。

今回は、師匠と妻と私とで、交互に操法前後で動作観察を行い、何番の椎骨で動いているかなどを、細かく観察をした。
操法点の観察は本当に難しい。


2017年9月2日土曜日

モノモライの結果を受けて、愉氣の稽古

前回のモノモライですが、報告を受けて治っていないとのことでした。
師匠がその方を観たところ、「愉氣が甘い」。
集注できてないので、愉氣が面から点になっていない。
師匠がその方を観ると、「明日あたり破裂する」とのこと。

そういう手をつくりたい、ということで、今回は着手の稽古。
まず、通常の着手を行い、次に目隠しをして着手、次に耳を塞いで着手しました。

通常の閉眼での着手と、目と、耳を塞ぐ着手は、まったく違うものでした。
私はこの時、目と耳は自身の外部を認識するためだけのものでなく、自身(他者も含む)の内側、を内観するための器官でもあることを確信しました。
眼は、科学的医学的には身体外部からの光の受光器官となるのでしょうが、それ以上のものだと思います。
耳も同様だと思います。

「鼻も塞いだらどうか?」と妻が言っていましたが、そうすると口呼吸になるから無理だねと皆で笑っていました。

一夜明けて今日、目と耳を同時に塞いで、師匠に愉氣をしました。
「ぼくが感じている感覚と近い」と師匠は言っていました。

しかしまだ「もどかしい、もう一つ入ってこれてない」とも。
たしかにそうだと思いました。
もう一歩入りこめば、すべてがわかる、という印象を受けた。

師匠の目と耳を同時に塞いだ着手はすごいものでした。
吸わされる。
通常は着手で吐かせるわけですが、この時は吸わされました。
この「吸う」というのも、緊張で息を吸ってしまうのでなく、自分の本来的な呼吸に誘導されている感覚でした。
ぐわーっと吸わされました。
「それが君の呼吸だよ。人によっては、すーっと吸う」。

ちなみに、妻の愉氣は質がわれわれと違って、包み込むような愉氣で、目と耳を塞ぐと、地球の真裏に貫通するような愉氣へと変化しました。
人によって愉氣の質も違うわけです。

昨日今日は師匠に岡島道場時代、そしてそれ以前の修行時代の話も聞け、勉強になりました。