2021年4月20日火曜日

スーパーマーケット

息子をスーパーに連れて行くと、走り回って大騒ぎをする。
主に妻が急いで買い物をしている間、私が息子の後を追いかける。

他の家の子で、いま時スーパーで騒いでいるのはほぼ見ることが無い。
うちだけだ。

積んである酎ハイの缶に突撃するのを阻止したり、殺虫剤に触らないようにしたりする。
息子は制止しても聞かない。
突撃する。
息子に触ろうする老人をいなすのも私の役割だ。
これらの疲労はかなりのものになる。

しかしながら、一年ほどこの役をこなしてみえてきたのだけど、実に興味深かったのが、そのスーパーによって息子の氣の上がり方が違ってくるということ。

喜んで、ただ走り回る店、観察しながらポイントポイントに執着する店、ひたすら触りまくる店、などそれぞれ違う。
物品の種類によっての差もあるのだけど、それだけでなく、明らかにその場の空間の氣を感じて高揚感が変化している。
日による差だけでなく、空間の氣の差があることは間違いない。

やはり空間に余裕があり活氣のある店が好きで、その場合は揚がり方が素朴で純度が高い。

息子のおかげでスーパーマーケットにも氣があるという当然のことを再認識できた。
考えてみれば、人間が作っている空間なのだからそれは当たり前のことだろう。
大人はスーパーを選ぶ際に主に値段を見る。
スーパーに行って氣分を替えようなどとはあまり思わない。
特売をしている店に行きたいものだ。
しかし、息子にとっては、スーパーとは主に氣分転換の場所のようだ。

観察していると、子供は常に値段ではなく氣に反応する。
ここは大人が子供から学ぶべき処だろう。

2021年4月15日木曜日

約3年ぶりの妻の風邪

しばらく前から腰痛を主張。
2日前から風邪となり、観察。

操法。
胸椎5番を中心にする。
詳細は省くが、妊娠出産の氣張りが息子2才の誕生日を境に弛んだようだ。

授乳の関係もあり胸郭が弛まず、それが骨盤にも影響していて、生理不順の原因にもなったと推察。
風邪は胸郭を弛め骨盤を弛めるためのものであると感じた。

腰痛はこの過程の半ばの自覚によるのではないか。
右の風邪だったが、これから、左でも風邪をひくのか、経過を観察する。

風邪の観察はほんとうに難しい。
風邪の理由、腰痛の理由は無限にある。

このような身体観と操法の手順を残された野口晴哉はやはり天才としか思えない。
現代日本人が自力でこのような身体の観方を創り出せるわけがない。
型は伝えなくてはならない。

2021年4月11日日曜日

お姉さんに遊んでもらう

2才の息子が公園で二人の小学生の女の子に遊んでもらった。
その子たちは二人で滑り台の頂上でお菓子を食べながらずっとおしゃべりをしていた。
息子はその二人の前を何度も行ったり来たりしたりして注意を引こうとしていたが、二人は無視していた。
息子はしつこくその場を離れないので、二人が降りてきて、息子を追いかけまわした。

しばらくすると、その内の一人が「動画をとってもいいですか?」と妻に聞いてきた。
了承すると、スマホで撮りつつ実況中継をしながら、追いかけまわす。
息子は嬉しそうにグルグル滑り台の周りを走っていた。
15分ほど撮影していた。
子供たちは飽かず疲れず追いかけっこをしていた。

印象的だったのが、二人の女子小学生が「可愛い」と一度も言わなかったこと。
昔の女子はとりあえず「可愛い」と言っていたが、言わなかった。
女子の「可愛い」という言葉は共同性の確認と言う説があるが、それがほんとうだとするなら、もう共同性を言葉で確認する必要はないんだろう。

言葉による瞬間的共同性の確認というより、動画の保存とその情景の補完的な言語描写により、時間の共有をバックアップするのだろう。
編集してバックアップ、バックアップして編集。
上手くいけば永遠に共有される動画を身体の外部に共有材として保存できる。
サーバーが火事で燃えなければいいね。

その女子は、スマホで動画を撮りながら、情景描写をしていた。
そして息子には決して触れなかった。

スマホが永遠性に直結していた。
このご時世に女子小学生を凝視して観察する機会が得られたのは僥倖だった。

年長者としては、彼女たちがテクノロジーではなく、芸術に触れる機会があればと思う。
また、子供同士であれば、身体に少しは触れるのが自然ではないかと思う。
最後に手を振って別れた。

私の運が良ければ、彼女たちに整体操法をすることもあるだろう。
彼女たちの背骨に触れた時に、私が何を感じるかまったく想像がつかない。

2021年4月5日月曜日

はやい、たかい、おおきい

息子。 
テレビで走る電車をみて、「はやい」は言う。
モニター越しでも速度はわかるわけだ。

「たかい」は実地にボールを頭の上を放り投げた時、はじめて言った。
「おおきい」も同じく大きな車に対して言った。

モニター越しの現実と本当の現実は違うようだ。
乗りあってはいるが。

視聴覚が届かない領域はどうか?

存在しないように思われることがあるが、重視すべきは触覚だろう。
何故触覚を破壊しようとするか?

現行の政治権力は皮膚を介した接触を禁止ないしは迂回する方向に進んでいる。
性行為も。
受精も。
出産も。
直接的な接触を避ける、抑制する方針だ。

何故か?

とりあえず、氣の否定と私は解釈している。
触れて、氣を感じることを禁止したいわけだ。
感じるな、考えろ、というわけだ。

高くて大きなものとは、とりあえず、山と海だ。
当面はこの二つが人々の心の拠り所となるのだろう。
速度からは距離を置いた方がよいようだ。

2021年4月3日土曜日

けん玉

この間けん玉を初めて持たせてみたら、膝で持った。
何も説明などしていないのに、すっと、膝で皿に球を乗せようとした。

玉を皿に乗せることも、膝を使うことも教えていないのに、そうした。

非常に示唆的だった。

言語とは何か?
道具とは何か?

他の身体に己の身体を触れる時、その仕方を本当に言語化できるのだろうか。
そこに普遍の方法などあるのだろうか。