自分でもお湯に浸かりながら、子供をお風呂に入れていた時、子供が騒いでしまったのですが、理由が分かりませんでした。
妻の指摘でお湯が熱いことにやっと氣づきました。
私が疲れていたんです。熱いお湯に浸かりたかった。
指導者として情けないことですが、これは非常に示唆的な出来事でした。
しかしこの時はじめて、「度」というものが腑に落ちた氣がしました。
自分の適温と子供の適温は違うということ。
当たり前のことなのですが、自分自身もお湯に浸かっていると、そして、自身が主体となって、お湯を観ているとなると、子供にとっての快の温度が、自分自身には不快にならざるを得ない、ということ。
子供と一緒に風呂に入る時、子供の快は私の不快。
落差のある二人の人間がひとつの場を共有する時、その裡一方が不快を引き受けると、もう一方が愉快になる。
これが今の私の「度」の理解。
野口先生は子供を風呂に入れる時には、熱い風呂にさっと短時間入れたという風なことが書いてある。
時間を詰めれば熱い湯を共有することができるような氣もするが、実際にはそんなに簡単にはいかない。
自分で自分の子供を、ある一定の時間特定の温度のお湯に入れるという行為は、感覚的な才能と同じくらいの経済力が必要になる。
つまりお湯に浸かる、二人の人間の身体の間の感覚的落差は経済的に決定されている側面があるということ。
それは私と息子の間でさえ。
現代ではスイッチ一つで風呂の温度が指定できるが、丁寧に風呂に入れている時間が無い。
日々の育児と家事で疲れているので、子供にあわせた、ぬるいお湯には入れない。
野口先生は子供を風呂に入れる瞬間だけに集注できたのでしょうが、私どもはそれ以前も以後も、子供にかかりきりです。
服を脱がすし、身体拭くし、着せるし、食事も作るし(子供用だけ別メニュー)、寝かせるし、明日もそれらを朝から晩までこなすのです。
整体を日々実践していくと、才能以前の経済力でつまずくことが多いのです。
これが現実です。