赤ちゃんの反応を観ていると、彼に観えている世界は、我々にとっての夢の世界のような感じがする。
私が玩具を次々放り投げるため、突然目の前に何かが現れたり消えたり、持ち上げられて、風景が切れ切れになったり、ほぼ連続的な意味は無く泣いたり笑ったりと感情やムードがコロコロ変わる。
何かを眼で追っていても、脳での認識は少し遅れがあるようで、意味が脳内で結像する前に身体の位置をずらすと状況に対する把握が困難になる。
自身の身体の外延の把握も正確ではなく(これは一般的な意味)、言葉も持たないので、物語としては世界を把握できないだろうと感じる。
我々に赤ちゃん時代の記憶が無いのも、そこに自我がないからなのでしょうが、視覚も触覚も嗅覚もそこに無いようです。
全ての感覚器が不安定で安定してないので、まだ人間として機能していないと感じます。
しかし私は我が子を観ていると、どうしても魂なるものがやはりあるのではないかとも感じます。
もぞもぞ動いている赤ちゃんに視えない何かが重ねられている感じがあります。
この漠とした魂の感触がない親が、子を虐待するのではないかと思います。
肉の塊にしか視えないからです。
虐待する親は夢の世界に住んでいるといえますが、その夢は悪夢で、悪夢は身体に方向づけられています。肋骨の問題なのです。
それは自身の身体を肉の塊として認識したその結果です。
赤ちゃんの身体に同調すれば、悪夢からただの夢に移調したはずです。
そしてその夢はその裡、現実へと受肉したでしょう。
肉の前に氣があって、氣が魂を感じるのだと思います。
こういったことを日本人が漠然と思考する時には、横文字を使わずに漠然とした日本語で思考すべきだとも思います。