2020年11月23日月曜日

子供を預ける

幼児を預ける施設があります。
一定の年齢になったら預けなくてはなりません。
様々な施設があります。

探しますと、それぞれまったく違います。
保育園、幼稚園、幼児園などがあります。
詳述しませんが方針がまったく違うわけです。

子供にとってはこれが初めての社会になります。
これが息子にとっての当たり前になるわけです。
我が身を振り返ると、かなり環境に影響される子供だったので、社会環境はほんとうに重要だと思いますが、子供が最初期に出会う社会は人工的で恣意的なものです。
大人の目線だとつくづくそう思います。

説明会に出て話を聴いて、大人が子どものためにいろいろ考えている、ということがすごくよくわかりました。
その場に子供がいたのですが、当然まだ言葉がわかりませんし、聴いていません。
が、感じています。
昔、自分も感じていたんだろうなあ、と思います。
とはいえ、2才くらいの自分は、大人が自分のことをそれほど深く考えているとは思っていなかったです。

その晩、息子は大泣きしたのですが、やはり不安を感じていたのかもしれません。

自分は幼稚園に通っていたのですが、入園式とか全く覚えていません。
幼稚園では誰とも話をせずに黙って本を読んで帰ってきていました。
放課後にマンションの隣の部屋に住んでいた一つ年上の女の子と毎日遊んでいました。
私はその子から対外的なすべての社会性を学んだわけです。

何処で誰から何を学ぶかは子供の自由です。

2020年11月19日木曜日

発声

息子は妙に言葉の習得が速い。動作もかなり素早い。
親としては成長が早いのは少し寂しい。

周りをよく観察しているから、最適な言葉が吐き出される。
言葉が遅い子を観ていると、周囲を観察していない。
息子は異常に周囲を観察している。
適度な言葉を発声するのは、観て聴いているからだ、そしてその前段に氣を感じている。
だから速度が速い。

子が氣を感じるには、親が子の氣を感じる必要がある。
親が感じて認識していないものを、子は感じないし認識しない。

氣がなければ、観察の端緒が得られない。
母胎にいる時に愉氣されていると、胎児は氣だけを感じるのだろう。
胎児は目も耳も皮膚も発達していないのだから、氣しか感じることができない。
だから氣がすべての基盤になる、氣の有る無しが生の根本として規定される。
目や耳や口すべてはその後に付け足される。
言葉と文字は最後にやってくる。


2020年11月13日金曜日

ボタン

1歳7ヵ月の息子が ボタンに興味を持った。
着衣の組成に関心が芽生えたのだろう。

この時期だな、と直感。
ここで左前右前と帯、下駄、草履を着せ履かせないともう無理だろうなと、直感した。

いまだ走り方歩き方はバラバラ。
これらがまとまる直前に伝統的な衣服を身に着けないと、民族の精神は身体に伝わらない。
衣服が身体をまとめ上げる。
服装の乱れは心の乱れ。

民族の衣装が身体を統一する。
身体が精神を統一する。
魂は山か海からやってくる。
身体は土から作られる。
民族衣装は動作から作られる。

土の上にアスファルトを敷かれれば動作は変更され、感覚も変換され、履物、歩き方も転換する。
民族、という観点に立つと、明らかに我々日本人はヴァーチュアルな現実を感覚している。

帯と鼻緒。
これが示しているのは腰椎3番と4番。
腰から下。
足より上。

ボタンが示すのはスイッチ。
そこから敷衍されるのはタッチパネル。
現状視線が止まり定着するのはスマートホン。
画面上にに釘付けにされる視線。
視線への集注が強制されている。

試されているのは信仰心。
思考ではない。




2020年11月4日水曜日

夫婦喧嘩

夫婦喧嘩をすると、1才半の息子は氣を使ってさっさと寝る。
息子は言葉は20~30語位しか話せない。
二語文もまだ話せないが、空氣は読める。
ことばの意味は正確に理解していなくても、氣を感じる。
緊張を和らげようと妙な動きをしたりする。

私自身は夫婦仲が円満な家庭で育った。
兄も優しい人間だったので、貧乏だったが家庭にはそれなりに恵まれていたのだろう。

私共夫婦の間の緊張感が息子に細かく影響を与えるのをみていると、崩壊した家庭で育った方の大変さがわかってきた。
子供が生まれるまではわからなかった。

家族というものは堅牢であればある程良い。
行き過ぎた個人主義は間違っている。
単純に子供に悪影響だ。
格差がありすぎるのも問題だ。

こういったことに関して「問題だ」と思うだけで良い。とりあえずは。
想像力の方向を少なくとも良い方向に向けるべきだ。
「無理だ」「不可能だ」と思うべきでない。
下を向くな。
前を向け。
己の姿勢を変えればすべてが変わる。