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2021年10月14日木曜日

失せもの

子供が生まれてから、沢山のものを失くしたり壊したりした。
クレジットカードは2枚失くした。
普通はそんなことはありえないが、育児中はありえないことが起きる。
スマートホンのSIMカードも失くした。

散々探しても出てこないので、どうやら子供が私が見ていない隙にゴミ箱に捨てたようだ。
氣が付かずにそのままゴミの日に捨ててしまった。

道場に持って行ったはずの、岡島瑞徳先生の本もなくなってしまった。
道場にあるはずが、何処を探してもない。
これもどうやら、駐車場に本を入れた段ボールを置いたままにしてしまったようで、そのまま盗まれたか、捨てられてしまったようだ。
きっとその時子供が騒いだりなんかしたのかで、慌てて車に乗ったりしたんだろう。
昔の『季刊CS』とかもう手に入らない本が色々あったのだが、結構ショック。
やっぱり今の時代はとりあえず何でもデジタル化しておくべきだと強く思った。

どなたか、岡島道場関連の本でお譲りいただける方はご一報下さい。
実際には余り読まないんですけど、関係者がどんどん鬼籍に入られるので、できるだけ現物を手元に置いておきたいのです。

2019年9月9日月曜日

股関節

息子の両足を、胸に向けてぐーっと折りたたんで近づけると、左が弛い。
これは産まれた時から。
立ち歩きを始めますと、この弛い方の股関節が、逆に固くなる、と言われています。

岡島瑞徳先生の平成17年6月12日の中等講座の第3講に於いて、男と女の股関節の問題が語られています。
ここで岡島先生が発見された、男女の股関節の相違に関する仮説を野口先生の高弟であった吉田順平先生に電話で聞くと、整体では昔からそういうふうにいわれている、とおっしゃったというくだりは、ちょっと面白いです。
楽屋落ちみたいな面白さなのですが、一生懸命整体を研究して、新発見した、と思っても、元々そう伝わっているよ、と言われてしまう世界なわけです。
しかし、自分の力で発見するのと、最初から懇切丁寧に教わる、というのはかなり違うことなわけなのですが。

それはともかく、産まれた時からの股関節異常は、栄養状態がよくないからだ、と野口先生の『育児の本』には書かれています。
これを治すには13ヶ月までの栄養がすべてであり、この期間に栄養を満たさないと、その後にどんなに栄養を与えても、もう満ちることはないとのことです。

2018年10月3日水曜日

受胎から出産までの日数

平成16年5月23日の中等講座第二講での岡島瑞徳先生によると、

「受胎から出産までに日数は決まっていまして263日目で生まれる。それに狂いがあったら間違っている。何か身体に狂いがある。最初に胎動があった日から131日目で生まれる」

とのこと。
そして、これは何時の講義か定かではないですが、野口裕之先生の講義要旨によると、分娩予定日として、

「受胎から263日~5日」
「最初の胎動のあった日の翌日から131日目これは胎児への注意を集める方法でもある」

とある。
さらに野口晴哉先生の『誕生前後の生活』(昭和48年)によると、

「やはりちゃんと二百七十三日お腹にいないと駄目なのです」

とあります。
誤植だろうか。
一体、誰を信じるべきか?
それは当然、野口晴哉先生、と言いたいところですが、野口先生は『女である時期』に於いて女性の生理周期が明治大正昭和で変動してきたことを書いておられます。
徐々に短くなってきたようです。
栄養状態の変化か、観念の変化、社会全体のリズムの変化によるのでしょうか?

受胎から出産までの日数も、誰の言うことが正しいのか、というよりも、それはあくまで理想であるということを理解すべきでしょう。
我々は、上述の偉大な先生方のおっしゃっていたことよりも、今の時代に生きて生活している人間を見つめるべきなのでしょう。

古い資料は、やはり参考資料なのでしょう。
帝王切開は駄目で、自然分娩が絶対的に正しいとは、今の時代に生きている私には言えません。
理想と現実は違います。
どこかで妥協せざるを得ないです。

しかし、目前の身体に集注しようとすると、必ず国家が立ち上がる。
国家を思考せざるを得なくなる。
そして日本という国家をこのような形態に変形した勢力に対して思考すべきだとも思う。

私が、身体に着手しようとすると、2種体勢になる、その理由の一つ。







2018年1月17日水曜日

『活元操法研究会記録(昭和37年3月20日)』

昭和37年の野口先生の講義。
この頃はまだ愉気が輸気とされている。
講義中「気を送り込む」という言い方をされている。気を何らかの物質に近い存在と認識していて、その輸出入によって、病気を治すといった立場をとられている。
しかし、病人の「早く治りたい」という気に引きずられるのは良くない、とも言っている。
無理矢理はやく治せば、「病気は治ったが体は弱くなった」となり意味がないと。
気とは多義的で、相互的なものであり、不可分であり、個人的なものではなく、ある種、指導者によって制するべきものとして、語られている。

この辺りから、徐々に野口先生の、病、気、病人、触手、に対する認識が変わってきたのだろう。

野口整体をまったく知らない人に、伝えるときに困るのはこの辺で、とにかく時期によって野口先生の思考が変遷しているので、ものすごく伝えづらい。
当然現在の整体協会の整体に対する公式見解は、この頃の野口先生の見方行き方とはまったく違う。

私としてはそれぞれの時期の野口先生の思考と技術の足跡を追っていきたい。
何故こう至ったのかを知りたい。

この講義録で一番気になったのは18頁の、触手時に両手で行え、という記述。
片手で行うと時々相手の異常を貰う、とのこと。
腕や腰が痛くなったり、草臥れたり、風邪をひいたようになったりするという。

輸気の時、両手を置けばそうならないという(しかし何故だろう)。
その輸気にも、送った気をもう片方で感じるのと、能率を高めるためにただ当てておくのと、両手の間で輸気をおこなうのと、三種類あると。

この時の吹き出物の治療で使うために説明している、真ん中で呼吸する方法は一番難しいとのこと。

このような輸気(あくまで輸出入の輸の時代の輸気の話です)の方法は、私は教わっていなかった。
この方法を今現在他の野口整体を教えている道場で教えているのかも知らない。
重要なのは、これらの方法はすべて経験に基づいているということ。
理論が先にあったわけでなく、やってみた結果この方法がうまくいった、ということ。

ところで、私は師匠から、三点目に愉気をする、といわれている。
一点目と二点目(を見極めた後)にそこから手を触れていない三点目に気が響き、そこに愉気をすると。
これは師匠が独自に磨いてきた感覚であり、師匠の師匠である岡島瑞徳先生からは教わっていない、とのこと。

こういったことを最後尾から学んでいる私からすると、結構困ったことになり、どの方法を取るか、と言う話になるわけですが、結局は自分の感覚できる仕方で愉気を行うしかない。
そしてその感覚は私の中でも日々変化し更新されていく・・・。

たとえば本ブログで私が、「愉気をした」と簡単に書いていても、実際はそこに逡巡や含みがあることをご理解いただければ、という思いで、今回は、野口整体を学ぶことと、実践することの難しさを知っていただきたく、古い講義録に言及しました。

2017年9月14日木曜日

『整体操法読本巻四観察の書』

個人的なメモ。

観察という概念は野口整体の中にしかないと思う。
西洋医学の観察は客観が主となるが、整体の観察は主観が主となる。
すべて指にて会すことである。
ここに書かれていることは、思想としてのみ取り出しても、とても高い重要性がある。

「整圧の構造」では身体操作として凄まじく高度な運動が、明確に言語化されている。
下手なりに操法をしている身としては圧倒された。
技術的にとても勉強になりました。

『整体操法読本巻三各論』

個人的なメモ。

本巻は各身体部分の操法の解説。
部分となると、師匠の師匠である岡島瑞徳先生のまとめ方は過不足なく合理的で無駄なくまとまっていた。
師匠から受け渡される岡島先生の残された講義録は、私にとって本当にありがたいものである。
この時代の野口先生の観方であり、また山口県での講習のために急遽執筆されたようで、それほどは深く入り込んだ記述ではない。

後語において、野口先生が整体の本義において熱く語っておられる。
この頃とは地球の生活環境も日本の法律も、大きく変わってしまった。
野口先生がここで語っておられることを、直接的におしすすめることは現在においては、もはや不可能だろう。
そこは素直に認めるしかない。
やれることをやるしかない。

2017年8月20日日曜日

『整体操法読本巻二実技』

個人的なメモ。

ここに書きとめられているすべての技術は、実際にこの水準に達している指導者の技を身を持って感覚していない限り、誤読は必至だろう。
型と技を護ってきた先達に対する敬意を忘れてはならない。

そしてそういったことに思い当たると、そもそも日本文化とは何なのか、近代化とは何なのか、という問いに直面せざるを得ない。

さらには、そういった問いのほぼすべてにすでに回答がなされている。
それが現代であろう。

現代の日本人に与えられている課題はすでにすべて指し示されていると思うが、どうか?
地球上のすべての民族に敷かれている道はすべてが茨の道なのだろう。
たいへんなことだがやるしかない。

2017年8月14日月曜日

『整体操法読本巻一総論』

過去の資料に対する、個人的なメモ。

タイトルにあるように、整体操法の「総論」が述べられている。
最も重要なのは解剖学的な人体観とは違うところを整体では観察をして操法をする、というところ。
ぼーっと読んでいると、なんとなくの理解になってしまうが、相手の感受性を主に指導するというあたりは、整体とは科学的なアプローチでは絶対にない、ということで、これはまじめに読めば、少なからずのショックが与えられる。

理論ではなく、生命に根ざした治療行為である、という点も、言葉にするとあまりにも陳腐になってしまうが(本書の執筆は昭和22年。終戦後間もないので、当時の日本人にとっては陳腐な言葉などではなかったであろうが)、そうとしか表現できないことだろう。

それにしても、この本を現在の平均的な日本人が読んでも、誤解しかできないであろう、と思った。再刊されない理由もよくわかる。

しかし、本当に重要な資料だ。
読めば読むほど、深みに嵌る。
何かに到達している。
理にかなっている。
氣で一つになる。