隣室の外国人一家のお父さんの言うには、これからは「遊び」が大事とのこと。
プログラマーをなさっているとのことでしたが、これから先の時代は、プログラムなど当たり前になるということらしいです。
きっとAIの助けなど借りて誰にでも出来るものになるのでしょう。
その時に大事なのは遊ぶ能力であると。
これから先の時代は細かいことなどどうでもよいのでしょう。
根本的なところで、遊ぶ能力が無いとクリエイトなどできないと、私も常々そう思っていますので共感しました。
子供たちはとにかく自由に遊ばせたい、とのこと。
外国人と話すのは見聞が広がりますので、好きです。
お父さんはインド出身であったので「面白そう」「一度行ってみたい」と言うと、「最近のインドはもう………」と言葉を濁していました。
沈黙がどういう意味なのかは無教養な私には解りませんでした。
彼らはニューヨークにも住んでいたことがあったとのことでしたが、アメリカの医療のいい加減さを語っていました。
それにしても文化的なギャップというのは越えがたいです。
私も彼らに整体のことをどう伝えていいかわからず、言葉を濁しました。
困ったのが、私は高卒なのですが、勉強は好きでしたので(受験勉強は嫌い)、英語は暇な時間に少し勉強していて、それで少しだけ理解できるので、いい加減な英語を喋っていたら、「この人は英語が出来る」とお母さんにお世辞で紹介されたことです。
いやいやいや、アメリカ人に「英語が出来る」と言われるプレッシャーは日本人にはかなりのもので、勘弁してよ、と思いました。
しかし英語だけはもっとちゃんとやっておくべきと思いましたよ。
中学の時の英語の教師が嫌な人間で反発して英語は真面目にやらなかったのが運のつきでした。
そんなの無視して語学だけは勝手に勉強すればよかった、と再度思いましたね。
自分は漫画家か音楽家になると決めていたので、英語など勉強しても時間の無駄だと思っていたというのもあるんですけど。
しかし、結局は、デッサンも、音楽の楽理も、語学も、すべてが中途半端なままです。
自分には理系の才能はまったくなかったので、英語位は不自由なく喋れるようになるべきでした。
異文化の人間とコミュニケーションする必要があるので語学だけは、金にならなくても、意味がある。
だから、子供にある程度の適性があるなら英語位は身につけさせるべきだ。
さらにどうでもいい話なんですが、そのアメリカ人のお母さんにスケボーを借りたんですが、やってみるとこれが面白くて。
普段、和装がどうとか言ってる人間が、バックパック背負ってジーパンにスニーカーで息子とスケボー滑って、「ワオ!」とか言って。
俺何やってんかな、とか思って。
整体どっかいっちゃってるじゃん。