2021年3月31日水曜日

内面

内面が育つ。
1才から2才へのこの時期。
外から与えると、裡が育つ。

毎日育てていると明らか。
毎日少しづつ与えないと、育成されない。

この過程を国家に管理させるべきでない。
保育園は現場の方は薄給で頑張ってらっしゃるが、限界がある。
必要なものやことを子供に毎日与えないと、取り返しのつかないことになる、という印象。

昔と違い、現代日本で子供を放っておいて自然に育成される、ということは稀だと思う。

自分自身の内面の幾分かは確実に外から意図して与えられたものによって作られた、と育児によって識る。
自身の内面に自分の意志は関与していない印象を受ける。

2021年3月15日月曜日

仮病

息子が痛いとよく言うようになった。
仮病の始まり。
痛くも無いのにいたいと言う。
あからさまに。

人間は仮病を使って、人の氣を引く。
この種の野口先生の洞察を以前は「凄い」と思っていたが、育児をするようになって、この見方は当たり前のことだ、と認識を改めた。

幼児はほんとうにあからさまに仮病で人の氣を引こうとする。
しかしまた、何かを手伝おうとする私の足を両手で押して、自分でやる、という意志も同時に見せる。
向こうへ行け、という動作もよくするようになった。

仮病と自立は同時に芽生えた。
1才10ヵ月。

2021年2月23日火曜日

深夜息子が笑う

夜寝ていて、息子が寝たまま笑う。
楽しそうに。
大好きな救急車に乗っている夢でもみているのか。
想像すると、とても楽し氣で微睡ながらも嬉しくなる。

1才児の見る夢はどんなものなんだろうか。
想像するとこっちまでワクワクしてくる。

2021年2月17日水曜日

息子、表情の変化が速い。
無表情から、笑顔への速度。
何も考えていない。
私への信頼しかない。
この速度変化が人生において最重要と知る。

息子が生まれるまでは、この速度を完全に忘れていた。
私も、子供の頃は自身の裡から湧き出るこの速度があった。

自発的な興味や関心の速度と変化、それらを行動に移す為の勢い。
そして他者に訴えかける言葉と行動による力。
これらは、無表情から、笑顔への変化の速度、破顔一笑においてのみ育成される。

この破顔一笑を養生する為には、親の子への氣の速度変化が必要不可欠。
親の子への氣が欠けていると、子供の破顔という感触は得られない。

親は氣の速度を毎日試される。

子供は笑いたいんだよ。子供が笑いたい速度で笑わせるんだよ。
面白いことなど言う必要はなく、ただ氣を向ければよい。
子供と同じ速度の。

2021年2月13日土曜日

発酵食品で手が

息子が発酵食品で手を使うのが嫌になり始める。
1年と8ヵ月位だったか。
手がべたべたになるのが気持ち悪いようだ。
発酵食品とは納豆。

離乳食から、普通の食事に入るあたりで、好きになったのが納豆で、ご飯より納豆をよく食べた。
もちろん手づかみなので、後の処理が大変だった。
お湯と石鹸で手と顔を洗い、服も着替えなくてはならない。
それでも、その時期は食べてくれるだけありがたいので、好きなように食べさせた。
こちらがスプーンで食べさせようとしても、食べない。
自分の手づかみでだけ食べる。
諦めて好きにさせていた。

それが最近は多少はスプーンを使うようになった。
突然手がべたつくのを嫌うようになる。

どうも、湿気の多い国での発酵食品の発達が、食器の発達と食べ方の作法に影響を与えるようだ、と氣づいた。

インドでは手づかみという。
暑いところだと、発酵食品は発達しない。
すぐに腐るんだろう。カトラリーなど無意味。
だからスパイスが発達するんだろう。
息子は納豆を手づかみするのが嫌で、匙を使うようになった。このことは明記しておきたい。

2021年2月5日金曜日

嫉妬

息子が私の後ろにいて、私たちはテレビを観ていた。
観ているのはアニメ。
三兄弟が微笑ましく助け合って生活している様が描写されている。

私が何度か観ているそのアニメを指して「この子たちはすごくいい子たちなんだよ」と誰にともなく言うと、後ろの息子が私の背中をバンバン叩いた。

ビックリした。 
テレビのアニメの子供たちを褒めただけで、私の背中をバンバン叩く。
嫉妬。
アニメに対しても嫉妬するものなのか、と。
はじめての嫉妬は親の氣を引くという処に関与していた。
嫉妬の根源は性でなく生に関係しているようだ。

1歳半を過ぎたころから、感情が発達して複雑になってきた。
それにつれて、表情も変化してきた。
赤ちゃんではなく、子供の顔になった。


2021年1月26日火曜日

想い出

 若い頃は「想い出作り」とかいう言葉を馬鹿にしていた。
記念写真も嫌いで、自分は撮られることを避けていた。
だからあまり若い頃の写真などは残っていない。

年を取ると自分を支えてくれるものは想い出しかなくなる、ということを認めざるをえない。
過去の良い想い出だけが自分の支えになる。

本音は、過去を振り返ると後悔しかなく、やり直したいことばかりだ。
私のような中年にはもはや未来などなく、未来は自分の子供に完全に投影される。
これが普通の中年男性の精神状態だ。
子供がいなくなると、未来が完了する。

何が言いたいのかというと、後ろ向きに前に向かって歩くことを否定するべきではない、ということです。

2021年1月20日水曜日

上頸

息子の上頸。
ふと触れて押さえると、どこまでも入っていくような柔らかさ。
真っ白でまるで手ごたえが無い。

上頸とは頸椎2番の3側。
頭の中を覗いているような感覚。
何も考えてない。

吸収する前のスポンジの様だった。
かつての自分もこうだったのか。今では汚水にまみれているように感じる。

息子に触れていると、自分自身が浄化されていく。
息子の上頸に愉氣していると、自分の脳を洗っているような氣がしてくる。

2021年1月4日月曜日

遊び

スーパーに隣接している小さな公園でたまに息子を遊ばせる。
たまたま同学年の子供が息子含め3人いて、遊ぶ形になった。
男の子2人女の子1人。

皆ことばはまだ話せない。
つかずはなれずで、走り回って叫んで手を叩く。
あまりお互いに触れない。
絶妙の距離感。

この距離感は今しかないものだった。
言語でコミュニケートできるようになったらこうはいかない。
社会化される直前の氣の交換という感じに、その場にいた親たちは皆感じ入っていた。

大人たちはそこから皆何かを学んでいた。
非常に印象深かった。

誰しも、どうしても自分の過去と照らし合わせるだろう。
子供と子供が出会えば遊びがはじまる。
そこに打算は無い。
考えが無い。

性別はあり、別れる時、女の子は泣いて嫌がっていた。

2020年12月25日金曜日

椅子の元型

子供が我々の膝に座る。
一年半を過ぎたあたりからだろうか。
突然座るようになる。

日本人の座法というと胡坐か正座か蹲踞という感じがする。
確かに、教えてもいないのに、私を真似てちょこんと正座もしていて、初めて見たときは感動した。
でも、もっとも子供が馴染む座り方は親の膝に座る型。
親の側は胡坐がよい。
自分が胡坐を組みたいというよりは、子供がそれを要求している。

子供は胡坐の上に、胡坐、というよりは、ふわっと足を弛めて座っている。
やはり椅子に座る時の形がこの型に一番近い。

しかし、親に存在のすべてを預けるようなこの座法は、椅子でもソファーでも大人の座り方としてはまず観ることがない。

ふわっと身体を預けて、後ろに何かを要求する。
大の大人がこの座り方をしていたら、周囲は不快に感じるだろう。

椅子の厳しさとソファーの優しさが、親が子に与える感覚のふり幅で、この全幅を親の膝により、子の身体に伝えるのだろう。

この身体感覚を造形するのが、職人の職能であり、その職能に出会うのが、人生の醍醐味だ。
職人に人生がなければ、この種の作品は創れない。
この触感の造形をアートとはいいたくない。
芸による術といいたい。