2020年10月26日月曜日

腹部第4

子供が夜泣きをした。

腹部第4を弛めるためのようだった。
昼に多くの人に会ったのでストレスを感じていたようだ。
感情が鬱滞すると腹部第4が固くなる。
泣けば弛む。
泣くことは必要不可欠なこと。

大人でも必要か?
正直いってそれはわからない。

考えてみると、泣くという行為はとても不思議だ。
何故涙が出るか。

悲しみ苦しみ痛み。
感情が臨界を超えると涙が出る。
それにしても、何故目から水分が出るのか。

夜泣き中、息子はひたすら泣いて叫んでいた。
抱っこしても収まらない。
エネルギーが鬱散され腹部第4が弛むと、寝た。

この腹部第4、固いと、押さえて弛めるのだが、どうやって弛めるか?
押さえて弛むか?
泣き叫んで、やっと弛むものが。

大人はかんたんに泣けない。
子供はかんたんに泣く。
身体の構造が違うからだが。
泣きたくても泣けない大人の身体に如何にして触れるか。考え込むと、よくわからなくなる。
きっと考えないで触れるのが最善なんだろうが、それにしても難しい。

2020年10月22日木曜日

ことばのまえ

ことばが一才半でまったくでないお子さんがいると聞きました。
詳細な状況はよくわかないので、あくまで推測なのですが、ことばのまえにそもそもその子は声をだせないのではないでしょうか。

声というのは大声のことです。
大人の常識からすれば、なのですが。

自分の子供を観ていると、このくらいの子供は声の音量をまだ調整できない感じがします。
自分の声が大きいか小さいか、まだあまりわかっていないです。

この時期は、脳よりも喉の発達を優先するべきだと感じます。
大声をだすな、といわれている子、また、住宅事情により大声を出すことが、無意識の水準で禁忌とされている家庭のお子さんは喉が締まると思います。
その状態でことばは獲得し難いと思います。

我が家は都内ですが田舎。
人気のない団地ですので、上下左右の部屋に人が住んでいません。
ですので大声出し放題です。
深夜に泣いて叫んでも、飛んだり跳ねたりしてもまったく苦情はありません。
子供が騒いでも我々夫婦の精神状態は平常です。
移動は車、行く先はスーパーやモールのみですので、へいちゃらです。

ベランダで月を見て大声で「まるまるっ!」と叫んでいます。
声量は氣になりません。
子供を育てる環境としては、大声を出せて暴れられる環境を私はお勧めします。

こえがあってことばが生まれる。
ほんとうはそのもっと前にうたがあるわけですが。

2020年10月11日日曜日

公園で子供たちをぼーっとみていると

ほぼ毎日公園で子供と遊びます。
妻と子と私の3人だけで、毎日過ごしています。
今年は特に、コロナのこともあり、また我々は子供を保育園に預けておりませんので、毎日3人だけで過ごしています。
誰も訪ねてきませんので、気楽なものです。
何時かはこの幸せな三角形が終わりを迎えます。
息子が言葉を憶えるまでの人格形成上の最重要の短い期間に、ほぼ3人だけで生活できたことを何者かに感謝せざるをえません。

ところで、公園で子供を遊ばせている間に、他の家の子供たちが遊んでいるのをぼーっと観ていると変な感覚になります。
とくに昭和の時代に作られた年季の入った公園ですと、40年くらい前にタイムスリップしてきて、自分がまだ少年で周りの子供たちとお友達のような氣がしてきます。

子連れでなかったら、たんなるやばいおじさんなんですが、子供が居ますので怪しまれません。
じーっとその感覚に集注していますと、3才より以前のもうスッカリ忘れていた記憶が蘇ってきます。
それは具体的なエピソードとしてではなく、感覚です。
そうだった2才か3才の時、マンションの隣の部屋に住んでいたひとつ年上の女の子と遊んでいた時、こんな風だった、と思い出します。
それは言葉ではなんとも形容しがたい感覚と感情です。
温和な広がりのある、目や耳や口や皮膚がやわらかくなるような情感です。
あまりにそこに集注していると、子供の面倒がみれないので、あるところでスイッチを切りますが、その瞬間自分の目つきが悪くなることに氣づきます。
子供の危険を監視するのはすごく目が疲れます。

それだけの話なのですが、公園で多くの子供たちが走り回ると、ほんとうに氣の渦ができます。
たまたま自分がその渦の中に入ると、確かに、自分も子供の頃は、この渦の中に毎日いて走り回っていたことを思い出し、またそのことをずっと忘れていたことにショックを受けるのです。

ふと思いましたが、戦前や高度経済成長の時代の日本人は、周囲の建物がどんどん破壊されていったので、こういう感じで自分の子供時代を振り返ることはあまりなかったのではないでしょうか。
また、自分より世代が下ると、インターネットやヴァーチャルな世界も記憶に混入するため、こういった感覚には浸れないのかもしれません。

私のこの不思議な感覚も時代の産物で、一過性のものなのでしょう。
今の若い人たちは将来自分の子供時代をうまく思い出せなくなるような氣がします。
感覚的な話ですが。
子供時代の動画や静止画がたくさんありすぎると、当時の身体感覚には浸れなくなります。

2020年10月7日水曜日

頭部第一

子供が顔を近づけてくる。
私の手を取って、自分の顔に近づける。
私は自分の額、髪の生え際を子供の同じ処に接触させる。
子供はふふふと笑う。

この処を整体では頭部第一と呼ぶが、しかし、息子は何をしたいのか?
私の氣が上がっているのおさめたいのか。
はたまた自分の氣が上がっているのが不快なのか。

どちらかわからないが、兎に角、スーパーマーケットでの一齣。ほっと一息つく瞬間だった。
これを息子は日を替えて数回おこなった。

息子はまだほとんど言葉をしゃべれないが、おおまかに理解はしている。
うーうー言いながらこちらの手を引くことで意思を表示する。

別の時。
夫婦で軽い言い争いをしていると、息子は私の手を取って引いていき、また、もう一方の手で妻の手を取った。
3人で手をつないでいる格好になった。
喧嘩をして欲しくなかったようだ。
子供にも子供の要求がある。

1才半くらいの時の記憶は私にはない。
言葉も喋れなければ、記憶も無い、という人生の非常に特殊な時期だが、実際には感じているし、思考認識しているし、もうすでにひとりの人間として生きている。
とても不思議だ。
私は生まれてから今まで、この2才くらいまでの時間をまったく重視してこなかったが(当然ながら記憶にないので)、やはりこの時期が人生の裡でもっとも重要な時期であることを再認識した。

きっと、この時期の経験は忘れるが忘れないんだろう。
自分自身のこの時期を思い出すことが出来るのは、この時期を生きる子供に触れた時だけだ。
観るでも話すでもない。
もちろん読むでもない。
触れた時だけ。
そして、他者に触れるには、誰でも母親の胎内から外に出る必要がある。
子宮の内壁は自分の延長にすぎない。
人間がこの世に生まれてきた理由は他者に触れるためだ。

2020年10月1日木曜日

回転

1才を過ぎてから。回転運動を認識するようになった。


 ペットボトルの蓋。ドアノブ。

この二つは自然界にはほとんど存在しない構造のもの。

自分で回して開錠しようとする。


そのうちに自分も回転するようになった。

上を見上げて、くるくる回る。


この回転運動に関しては、オモテとウラの回転ではなく、上下に向かう渦巻き状のものなのだろう。

人間は出産時に、回転しながら産まれてくるわけだが、何か思い出してのことなんだろうか?



2020年9月30日水曜日

子供が親を真似する

 子供の前で、悪ふざけをしていたら、子供がその悪ふざけを真似したので、驚いた。

これまで、子供の言うことなどを親が真似して、繰り返すことはあったけど、子供が親の言動を意識的に模倣することはなかった。

これがとても不思議な感覚で、昨日までは内面を感じなかった子供に内面を感じた。

(因みに文化左翼の言う「人間に内面など無い」というような言説は完全なる嘘であり出鱈目です。)

模倣といっても、その場の状況や、その動作と言葉の面白さを理解してのことだった。

機械的なものではない。

心の繋がりがあって、はじめて面白い状況が生まれ、そこで学習がはじまる。

自分は、魂が先にあって、その後に学習があると感じている。

子供を産み育てていれば、ほぼ誰でもそう感じる。はずだ。きっと。


人工知能のディープラーニングとか話題ですが、学習の後に魂を獲得するなどということがあるわけがない。

2020年9月14日月曜日

自立というが、あるいは

 子供の成長の速度が速い。

5回ほど滑り台の階段を上ったが、1回目と5回目は足取りが全く違った。

一日が始まり、一日が終わるころには、何もかもが変化している。


子供が、急に人間のような雰囲気になるので驚く。

この間は抱っこしないで、独りで寝た。

「自立」という言葉があるが、自分から独りで寝る、ということの意味は何なのか?

抱っこを要求せずに、自分独りで寝ることは、眠りが我々と分離し始めるということなのか。

眠りというより、「寝入る」という運動が独立分離するのだろう。


独り立ちよりも、独り寝の方が重要かも。

一日を独りで締めくくる、ということは、寝ながら、独力で身体に対する頸の位置を決め、頸を弛めることが出来るようになる、ということだ。

これは親との相互運動ではなく、独りでの活元運動だ。

「立つ」ということは錐体路系での運動であり、「寝る」ということは錐体外路系での運動だ。

「寝入る」と「眠り」も運動の内実が違う。「起きる」と「立つ」も。

そして、これらの間には常に「夢」がある。

2020年9月8日火曜日

桃とバーミヤン

車に乗っていて通り過ぎるほんの一瞬だったんですが、 息子がバーミヤンの看板を見て、「もも!」と言った。

少し前に桃を食べさせていて、本人は味をたいそう氣にいって、すぐに「もも」という言葉を憶えた。

でも、そのまま忘れてました。

そうしたら、通りすがりに「もも!」言ったのでビックリ。

桃は皮を剝いて渡していたのですが、何となくわかるんですね。葉っぱも生えてなかったのに。

息子は3種なのか、食べ物に関しては言葉の憶えが良いようです。


それにしても最近は息子の裡で課題が10個くらいあるようです。

それらを複合的に乗り越えていって成長していっているようです。

立って歩けるようになるまでは常に1個の課題をひとつづつこなしていくという感じでしたので、観察も楽でした。

今は忙しすぎ、また我々夫婦の疲労もあり、精密に観察できなくなりました。

育児と整体を両立させるのは難しいです。

2020年9月6日日曜日

成長

1才3ヵ月位から、子供の成長が複合的になっていったというか、多岐に渡るようになったので、その変化を言語化するのがとても難しくなった。

動作一つとっても物凄い速度で変化している。

笑い方もどんどん変わる。

言葉も少しづつ憶えている。

喋れないが、こちらの言っていることは何となくわかるようだ。

階段の昇り降りなど、できることが増えていく。その過程をずっと毎日観察してきた。


私は毎日子供と過ごしている。

私自身もすごい速度で成長している。この年でこの成長はありえないことだと思う。育児以外のことで40歳過ぎて毎日ここまで成長していくということは無い、と断言できる。


ある意味恐ろしいことだ。

自分の子供と共に成長する、このことはもうやり直せない。

チャンスは一度だけ。

何人か子供を産んで育てたとしても、それぞれ性格が違うから、成長の内容は違うはずだ。

家族は大切にするべきだ。

2020年9月2日水曜日

食べ物で遊ぶ

服部文祥の『獲物山』によると、野生の動物は獲物のおいしい処だけを食い散らかして、後はほっぽってしまうようだ。
野生動物が天然記念物のモリアオガエルのおいしいモモ肉だけを齧り去る、『獲物山』にはその写真が載っている。

動物は生命に感謝などしない。
宗教を持つのは人間だけのようだ。

1才5ヵ月の息子は、よく食べ物で遊ぶ。
これは本能だ。
現在のところ正しい。
腹が満たされると、ご飯を適当に放り投げたりして遊ぶ。

興味があるのはやはり、意識的に躾なくても子供は食べ物で遊ばなくなるのだろうか、ということ。
とはいえ、そんな実験するわけにはいかないわけで、作法を教えますが、しかし、どのタイミングなんだろうか。
ごく自然にそれを認識するタイミングは何歳くらいなんだろうか。