2017年7月29日土曜日

『岡島瑞徳講義録 平成15年度第12講 中等講座 腰椎3番の気の傾向』

中等講座は岡島先生の講義録を元に稽古を行っていて、今月は体勢の稽古。
昔の岡島先生のこの時点での認識と、そこから、十年以上経った現在の師匠の認識を比べながら稽古を受けることができるのが、私の利点だろうか。
私は動画撮影も許されているので、メモなどもとらずに目前の身体に集注することができるのもありがたいことだ。

体勢とは野口晴哉先生がなくなった後に提唱された概念であるとのこと。

感覚の世界なので、非常に難しい。

私の身体を観て、師匠に上下の体勢でD8が上がっていると言われる。
本来D1~4までが上下転移しているのはいいのだけど、D8が上がっているということは、水落で突っかかっているからだと、だから水落が弛まないんだ、と。
この場合、水落が固いのは、固くなるような考え方をしているからだ、と言う。
私が「考え方が間違っているから?」と聞くと、うなずく。

そして、上下のゆさぶり、それからD8の1側を弾くと、左右体勢へ変わる。
この時、私の腹が鳴った。
「上下の人のD8を押さえると、お腹が鳴ることが多い」とのこと。
だが、考え方を根本から変えないと、またそのうち水落は固くなる。

この日の収穫は、その人物の考え方の間違いは、身体に触れればわかるということ。
身体がその考えに抵抗している、と言い換えることもできるだろうか。
つまり、その人物のその思考はその人物の身体から湧き出て来たものではなく、誰か他の人物から植え付けられたものであるということ。

2017年4月20日木曜日

意図と整体

2015年と、2009年に録音していたテープがあり、旅行に行く前にミックスダウンしていた。
全く手をつけていないので、壊れてるかと思っていた機材も動いた。

マスターテープだけ自分のために残して、機材とテープは全て処分しようと思っていたのですが、いまの身体で聴き返してみて、良いサウンドに聴こえた。

数年の時を経ると、当時の自分自身とサウンドとの間の関係を客観的にとらえることができた。
結局、わたしが音楽を通して実現したかったことは、意図を消す、ということだった。

テクノロジーの意図、自身の精神と身体の意図。
その要求の理由はわからない。
しかし、意図が消えると、そこに喜びを感じる。

若い頃と自身の志向が変わってしまっていて、最近は芸術や哲学よりも、自然に関心がある。
自身を取り巻く、環境や身体のそれそのもの。

文化が生まれる、それ以前の処に触れたい、認識したい、操作したい、という要求。
2017年の宮古島周辺の離島にはまだそれがあった。
容易にそこに触れることができた。
ただ、それほど、遠くない未来にそれらは消滅してしまうのではないか、という予感にも触れた。
現地の方々が、宮古島や伊良部島の変化に対する不安を口にしていた。

自分が何を求めているのかいまだはっきりしないが、整体を志す、というその気持ちがいまの自分の生活の核になっている。

意図を消したいという要求と、整体を志すことの関係は、いまだ自分でもよくわからない。

2017年4月16日日曜日

宮古島

宮古島とその周辺の離島へ長期の旅行に行ってまいりました。
あまりに濃密な体験であり、帰って数日経ちますが、いまだに経験したことが言葉になりません。
身体のなかがざわめいています。
すばらしい環境とそこで暮らす方々とのふれあいに胸がいっぱいになります。


2017年3月24日金曜日

小便

最近は男性が座って小便をするとのこと。

男性と女性では小便に関する考え方捉え方が違うのではないかと思う。
男性の小便の排泄には腰椎5番が関わっている。
男性は小便を前方に、女性は下方に排泄する。
男性にとっては小便が前後運動であることが自然であり、的を射るという感覚と直結している。狩猟の本能、起ち、歩き、走る、という本能と直結している。

男性にとっての起立した状態での小便は、日々の本能の確認の行為。
毎朝、的を射るために、身体を微調整するための訓練であって、この訓練を怠れば、男性性が減衰していくのは当然。

生殖器がすべてではないものの、性別の違いの決定的な違いはやはり生殖器であって、その生殖器を粗末に扱ってしまえば、性差があいまいになっていくのは必然。

それが便器を汚したくないがゆえ、という消極的な理由、利便性を常に優位においた発想によって自身の生殖器、身体を大切にしないというなら、そんなことはあってはならないことであると思う。

2017年3月21日火曜日

978操法

一息にドンドンドンと行う型が本式なのですが、9番7番8番と分解して順番にショックする型もあり、それを稽古した。
まず見本として、師匠の技を受ける。
そして起き上がり、正座で少し話をしていたが、身体が内側からカッカしてくる。

そして、やってみせろ、ということで、私が師匠を相手に一連をショックした。
それなりに形になったと思ったが、師匠は「うふふふふ」と笑い、起き上がって「この辺でだけでやってる」と胸のあたりを指す。

言われると、たしかにその通りで、全身を使っていない。
しかし、相手の呼吸にあわせて全身で動くというのは本当に難しい。
呼吸の間隙をつく、というのが「虚の活用」ということの要諦なのだろう。

師匠に、操法中のある身体の末端の動きについて、あえてそうしているのですか?と聞いたら、えっそんなふうにしてる?とのことで少し驚いていた。
できるようになると、もう、細部の動きは意識しなくなるのか、と思った。

2017年3月16日木曜日

管理人さん

道場はマンションにあるのですが、そこの管理人さんが捩れの人で、駐車場の車の駐車の仕方などでわざわざ道場にまで来て文句を言ってきたりしていたので、私は好きではなかった。

ところが、ある日のこと、エレベーターに乗ったら、その管理人さんも乗ってきたことがあった。
その時なぜかすごく丁寧でハキハキした挨拶をした。
別にそうしようともそうせねばとも思わずに、なぜかそうした。
普段はぼそぼそ話す私が。

それ以来その管理人さんとの関係は良好になり、会うたびににこやかに挨拶を交わすのであるが、実にふしぎ。
嫌いだったはずが一切の感情的なわだかまりがなくなってしまった。

人間とはふとした瞬間にそうなるものなのかとも思うが、それにしてもふしぎだ。

2017年2月21日火曜日

氣の形

流れで合掌行氣の訓練、というか実験。
私の他、おばさまがお二人。整体に関しては素人のかたがた。

正座で合掌行氣をしている人の胸椎12番の2側を後ろから押さえ、師匠が氣を通す。
「掌が大きくなるでしょ?」と、また「こうすると口が大きくなる」とも。
お二人は手のひらが大きくなるのはわかったけど、口はわからないと。

私の順番が来て、氣を通してもらうと、「おかしいなあ、つながらない」「うーん」などとおっしゃる。
何度も手の角度を変える。私も一生懸命合掌、手のひらに氣を集めるが、大きくならない。
「口はすこしわかるでしょ?」と、たしかに中の奥が少し大きくなる。
少しがっかりしたが、一連が終了し、礼をした後、また首をかしげながら私の元にやってきて、もう一度試す。
「ああ、上に伸びるんだあ」と、そう言われる前に、合掌してる手のひらの上にぼうぼうとロウソクの炎のように氣がたちのぼるのを私も感じていた。
私はこの感覚が氣なんだと、はじめてはっきり認識した。

師匠に聞くと、統御が必要で、この合掌行氣においては自分自身を包み込むような自分が自身の手のひらの中に納まるような氣がよいとのこと。

それにしても何故胸椎12番なのだろう?
この骨に関しては野口先生も多くを語っていない。師匠は「研究中」とおっしゃっていたが、私にとってもこの骨は今後の課題であろう。
現在は古い資料を掘り起こしている最中なので、なにか発見があったらここに書いていきたいと思う。

2017年2月10日金曜日

仕事か遊びか

ある幼稚園で「お遊戯」(昔はこう言った)を「仕事」と称してるということを知りました。
子供が幼稚園に行って「仕事」をすると。

何処の国の教育法を取り入れたのか知らないが、ものすごく違和感を感じる。
何もない空間と時間だから、想像力を働かせて何事かを創造すると思うのだが。

大人が幼児の創造性を信用できなくなるくらいに幼児的になっているとしか思えない。

今の子供に必要なのは安全な空間と無為の時間、この二つのみ。
それ以外の大人の都合を押し付けるのは間違っている。

利益とつながらない子供の想像力がそんなにそんなに恐ろしいのだろうか。

2017年2月9日木曜日

愉氣

愉氣とはなんだろうか?

そこでは天心でなくてはならないという。
集注であり同調であるという。

愉氣とは究極には天心であろうが、一番手前にあるのは共感であると思う。
必死に一心に愉氣していて、相手の感覚が感じられたとき、はじめて相手の息が深くなる。
何故か伝わる。
他者が自分の何かを感じたとき、自分も相手の何かをふと感じる。

施術者の「治れ」という念が、邪念であるのは、愉氣される側が他人に「治れ」と思ってもらいたくないからだろう。

それは自力を促すような他力ではないからだ。
一番最初にあるのが、共感で、そして注意の集注であろう。

そして共感の前には観察がある。
観察なくして共感はありえない。

何処をどう観るか。
すべては、まず自分を観ることからはじまるだろう。

しかし、本当には自分は何を観て何を感じてるだろう?
自分自身に対して。

2017年2月2日木曜日

なるほどねー

以前師匠に着手されたときのこと。するなり。
「なるほどねー」と。
なにが「なるほどねー」なのかの説明はない。
何時もこういう調子。

師匠は着手しただけで、ひとつづつ背骨に触らなくても、各椎骨の状態が認識できる。
自分で自分の知らない状態を観られることはやはり恐ろしい。

私の頚椎3番からの1側が胸椎7番の右2側に繋がっていた。
胸椎7番の左は癌や血液異常、右はあまり出ない処で少し不思議がっていた。
7番は対象のない漠たる不安や恐怖の骨でもあり、それが上からの1側につながるということは、「不安に苛まれている?」と聞くと、「そう、不安に苛まれている」と言ってこらえきれないという感じで普段冷静な師匠が、くすくす笑った。

身に憶えはある。
こういったこと、背骨の状態から観る自分自身の無意識が意識的に認識できたとしても、するべきことは腹を決めること以外になにもない。

結局のところ自分自身の眼前にある現実を変えなければ、背骨も変わらない。