愉氣とはなんだろうか?
そこでは天心でなくてはならないという。
集注であり同調であるという。
愉氣とは究極には天心であろうが、一番手前にあるのは共感であると思う。
必死に一心に愉氣していて、相手の感覚が感じられたとき、はじめて相手の息が深くなる。
何故か伝わる。
他者が自分の何かを感じたとき、自分も相手の何かをふと感じる。
施術者の「治れ」という念が、邪念であるのは、愉氣される側が他人に「治れ」と思ってもらいたくないからだろう。
それは自力を促すような他力ではないからだ。
一番最初にあるのが、共感で、そして注意の集注であろう。
そして共感の前には観察がある。
観察なくして共感はありえない。
何処をどう観るか。
すべては、まず自分を観ることからはじまるだろう。
しかし、本当には自分は何を観て何を感じてるだろう?
自分自身に対して。