2020年6月8日月曜日

一体感

男親は子供が生まれてから、子供との一体感を感じる。
お腹にいる時は手出しができないから、生まれた後に抱いていると、一体感を感じる。
女親は子供が生まれる前の方が、子供との一体感があったようだ。

どんどん大きくなるから、母親は長時間の抱っこはつらいようだ。
私にとって抱っこして寝かしつけている時が、重いけど至福の時である。

2020年5月28日木曜日

食べる

今はまだ素手で食べる。
少しだけフォークを使えるようになってきた。

実は口と手の連携は難しい。
手は手、口は口で別個に動かしてしまう。

口と手が連携したときに、顔に食欲の意識が生じて、連携の結果に満足感が感じられるようだ。
食欲に方向性が生じる、というのだろうか。
手が方向を指す。
左右二方向で、その左右二方向には常に順序がある。
左右の序列は食べる時に確立されるのだろうか。
親が子供左右どちらに座ってどちらの手で食べさせるのか、は意外に重要。

手と口が生きるために最も重要で、その次に顔がくるが、顔は様々な要素の集積となる象面なのだろう。

脳と顔は別のものだ。
情報が集積する処として、同じくらい重要だが、情報はそれぞれ別の仕方で保存さ引き出されるようだ。

意外、という程でもないけど、食べている瞬間には足は関与しない。
洋の東西かかわらず、正座でも胡坐でも、椅子に座るのでも、食事時には足が消えていたほうが礼儀に適っているようだ。

子供を観ていると、基本的なことの発見が凄く多い。

2020年5月19日火曜日

二から三

よくしゃべる言葉。

ぱっぱっ
まま
ないない

ぱっぱっ、は何にでも言う。
妻が私をパパと呼ぶのをよく聞いているから、ぱっぱっと言うのだと妻は言う。

ここに最近加わったのが。

てぃってぃっ
わんわん
にゃあにゃあ

てぃってぃっ、は興奮した時に使うことが多い。
じょじょに言語が分節されてきた。
視覚対象と発声の身体内(脳内ではない)での繋がりが出来てきたようだ。
頸で観ていくと、頸椎2番と5番の繋がりということか。

何故か2音での発声。
2は、始まりと終わり。
始点と終点。
反応。
交合。
これらを意味する、というより、意味が音を追尾してくる印象。
動作、行動の後を意味が追ってくる。
親からはそう観える。

1音というのは悟りの音だと思う。
そこに意味はない。
意味が音を追えない。
空間がない。

最近3音言えるようになってきた。
私たちが、てぃってぃってぃ、などと言っていると、てぃってぃってぃ、と真似して言う。
3は生産。
追尾してきた意味が、音に繰り込まれる。外から。
おそらく、音の遊びは3から始まる。
4になると一度円環が閉じて、安定する。
5でもう一度爆発するだろう。

2020年5月10日日曜日

領域

子供は目が綺麗で、遠くを観ていることが多い。
失望も希望も無い目は潤っている。
この目を観るために生まれてきたとさえ、私は思った。
それはかつての私の目でもあり、かつての私の目を観る私の目を裡側から観る。

近くより、遠くを観る目の方が美しいことを知った。
スマホの画面を見る目は死んでいる。
殺されているというべきか。
目の本来の機能が閉ざされるという印象。
歩けるようになると、壁を意識する。
向こうへ、意識が向かう。

1歳ほどの子供は常に閾を感じている。
そして、閾をまたがりたがるが、同時に恐れてもいる。

扉を、しょっちゅう開閉する。
閾を感じている。
閾をまたがる感覚。
閾を作る感覚。

領域をまたぐための移動は単なる移動とは違う。

自分だけが仕切りのこっち、親が向こうだと悲しがる。

自動的に動く閾は光と闇の間の閾だろう。
毎日動く。
自分から離れ、近づいてくる。
生死の彼岸で動いている抽象的な現実。
動かせない。
毎日動く動かないもの。
この曖昧で自動化した、現実の強制力が、後に善悪の閾として、人間の生きる世界に投影されるのだろう。
海が身近にあると、もう一つ閾の移動に理論が加わる。
光と闇の間には、月がある。

暖簾に腕押し、という言葉がある。
我が国では善悪の閾は暖簾として表象されていた。
暖簾を腕で押す、という身体動作が重要だったのだが、現在では暖簾を腕で押すことはほぼない。
暖簾があると、風というもう一つの元素が加わる。
風で、目に対して扉が開く。
暖簾は目の位置に置かれる。
足の位置にはない。

そして、引き戸では、閾の領域に変化は生じないが、開き戸では方向が生じ、裡と外の領域も変化する。
光に方向が生じ、闇が一方の扉の裏に押し込まれる。

目は、横に開く扉では横に解放され、奥に開く扉で合焦され、手前に開く扉では片目になる。

いずれにしても、子供の目は美しく、美しい目は常に遠くを観ている。

2020年5月9日土曜日

歩き方の変化

息子の現在の歩き方。

足首が細かく動くようになった。
第一蹠骨底に重心が乗る。
外踵が上がる。
そうすると、小指が少し柔軟に大地を掴むように動く。
足裏の皮膚も少し張りがでてきた。固いという程ではない。

この足の変化が呼吸活点につながる。
呼吸活点の動きが、呼吸を支配している。
胸が開かれ、奇声が発せられる。
この声が喉を変える。
腰仙関節と上頸の連動。

こういった繋がりが、はじめはばらばらだった身体に生じるから、異常のある処とは別の処を押さえて、身体を変化させることができるのだ、と再確認。
体運動の構造を観察して把握することが、整体を学ぶ為の王道であることに違いはない。

2020年5月8日金曜日

腰眼

息子、焦点が腰椎1番。
皮膚。
腸骨の角。

腰椎5番と足裏。
ようやく歩き始めた。

整体では栄養が足りないと、自分で探さなくてはならないがために、立ち上がり歩くのが早くなるという。
なので、我々はせっせと栄養を与えていた。

13か月でようやく気軽に歩き回れるようになった。
最近は足裏ですべてを感覚しているようだ。
ここまで足裏の感覚に集注するのは今だけなのだろう。

そこで腸骨の角、腰椎5番も連動して動き出す。
腰椎1番と5番は不可分に連動している。

なるべく裸足で外を散歩させている。
奇声をあげながら、手を挙げて、歩き回る。
真似をして自分もやってみると気持ちいい。

股関節の引き締まり。
可動性。
かんたんに立てるようになると、そこからは重要なのは股関節の可動性のようだ。
今はまだ爪先がハの字にしかできない。ハの字の状態のまま足を前に出すから、大きく身体を揺らさないと前進できない。
股関節がもっと大きく自由に動く必要がある。

若返りの急処が腰眼と教わっていた。
あまり実感がなかったが、子供を観ているとよくわかる。
若さの中心は股関節であり腰眼だ。
ここの引き締まりが腰仙関節に向かう。

2020年5月1日金曜日

音楽の趣味

息子1歳においての音楽の趣味。

竹村延和の『子供と魔法』が好きで、何度か聴かせていたが、これが反応が良くない。
子供は好きではないのだね、こういった作品は。
どうも細かい音の変化が聴き分けられないようだ。

コルトレーンを聴きながらご飯を食べさせていると(私がずっとメロディーとコードの動きに集注しながら、食べさせていたというのもあるのでしょうが)あるポイントで呻きだす。
うるさくて嫌なようだ。視覚でも何かを目で追うとき、動きが速いと眼球の動きがついていかない。
本人には消えているように見えるみたいだ。
音も同じなのだろう。
耳が音についていっていないようだ。
速度が速いと認識できない。

スタン・ゲッツならいいかと思い、CDを替えて音楽を流すと(また私が音楽に集注しだすわけですが)、始めはいいのですが、途中で飽きだす。

クラシックは概ね聴き流せます。

マイケル・ジャクソンは結構楽しんで聴けるようです。
ジャクソン5も聴けます。

初期の松田聖子は眠る時に何時もかけています。
子守唄です。

ようするに、モータウン?
ソウルミュージックは違和感なく聴けるようです。

再生芸術としては、所謂大衆音楽における音域と感情の配置が聴きやすいのでしょう。
聴きやすく作ってるからね。
聴きやすいものは聴きやすいのだね、やっぱり。

それから、大のお気に入りが、やっぱり童謡!
反応が全然違う。
とくに山野さと子さんという方の歌声が好きみたいだ。
私も一緒になって童謡を聴くのですが、これが面白い。
発見がたくさんある。
とくに詩が面白い。
へぇー、と思うようなことを歌っている。
童謡や唱歌はドラッグが関与していないところもよいのだと思う。
サウンドが独りよがりにならずに丁寧な印象。
媚びているわけでなく、ひたすら丁寧に作りこんでいる。
音数が少なくメリハリがあり、長調で聴きわけやすいところに音を置いている。
異常ではなく正常を基準としている。
というより、子供に向けて作品を作ると、その作品は正常になる、ということのようだ。

2020年3月8日日曜日

手を叩く

「隻手音声」という禅の公案がありますが、片手で鳴る音は如何に、というあれですが。

子供がある時期から手を叩くようになります。
これは食べたものが美味しい時が顕著ですが、嬉しい時に手を叩きます。

最初から手を叩けるわけではなく、始めのうちは、両手を身体の横で肘でL字に曲げて、バンザイをしながら、手首を前に振る形で、喜びを表現していました。
胸椎6番の可動性がよくなり、感情が動きます。
やってみるとわかりますが、この形で手を振り動くと、胸郭と肩甲骨が弛みます。
胸椎2番から6番までが弛む感じでしょうか。

この動きから、拍手という動きになるまで随分と時間がかかりました。
何故かというと、拍手という動作は結構難しいからです。
自分で丁寧にやってみるとわかります。

拍手の前に、踊る、という動きが発生していました。
特定の音楽をかけると踊るわけです。
赤ちゃんケージに手を掛けて、ライブハウスの最前列のような感じでタテノリで踊ります。
跳ねる感じであって、スイングはしません。
単純なタテノリの8ビートがお気に入りでよく踊っていました。
これが自分の子の特性なのか、人種的な特性なのかはわかりません。比較したいところなのですが。
現在は息子は立ちたがっているので、焦点が腰椎5番にあり、それが理由かもしれません。
ジャズやファンクなどは聴かせていません。
ノイズを聴かせると大抵息子は無反応です。

拍手という動作の難しさは、両手を胸の前で同じタイミングで止める、というところにある。
右手と左手の二つの動きが胸の前で、形になる。
しかし、これは本当は形にする、のですね。
そして動きが形になった瞬間に音が発生する。
止まった瞬間に、運動に移行して、呼吸が発生する。
さらに、その呼吸が感情を動かす。
その感情の動きが腕を動かす。
この動きの中心にあるのが、胸椎6番への集注ですが、胸椎6番への集注は、いわゆる修行とか我慢というような感じの集注ではなくて、もっとふわふわした楽し氣な集注です。
眉間に皺を寄せていると、胸椎6番には集注できません。

合掌と拍手は違います。
合掌は掌への集注の型であり、拍手は音への集注の型です。
どちらでも動きは潜在しています。

前述の公案「隻手音声」という公案。
私なりの回答。
両手で鳴る音は広義の和音。片手で鳴る音は広義の雑音。

2020年2月25日火曜日

『育児の本』『子育ての記』『誕生前後の生活』

0歳児。この時期の赤ちゃんは、1日ごとに変化する。
私は産まれる前から、そして出産から子供を毎日観ている。

毎日観ていて、心理学や精神分析などの本に書いてあることは、あまりあてにならないな、と痛感します。

妻は、出産前から整体を勉強して、愉氣や毎日の散歩などをしている人でないと、出産後の捕食なども含めて、整体式で育てるのは無理ではないか、と言っていた。
産んだ後で、野口整体を知って、それから何かをしようと思っても難しいと。
とにかく、大変です。
整体育児は、世間一般で言われていることとは、あべこべです。

実際『育児の本』『子育ての記』『誕生前後の生活』くらいしか参考文献がありません。
そして、この3つの本に書いてあることも細かいことが正確に記載されていないです。矛盾があったりします。
これらの本で書かれているお子様方は、野口先生のお屋敷でお弟子さんお手伝いさんも含めた大人数で育てています。危険な状態の時は、野口先生の動物的な天才性による育児で救済されたりしています。

3冊とも名著です。
しかし、子供がいないとピンとこないと思う。実感がわかないから。
私もそうでした。
子供がいらっしゃる方でも、整体出産していないと、ご自身の病院での出産を否定されていると感じて気分が悪くなるかもしれません。

書いてあるその通りにしようとしても、とにかく育児は忙しいので、目の前の状況と本の中にある情報にかなりのギャップが生じてゆき、それが日々大きくなっていって、氣が付くと、整体育児はおざなりになる、という方がほとんどであろうと思います。

だからこれらの本はあまり言及されない。
実践するのがほぼ不可能だから、そもそも論評できない。

例えば『子育ての記』にて7ヶ月目に色々食べさせていて、そのメニューが書いてあるが、奥様である昭子さんは一切家事をしなかったと言われているので、これは恐らくすべて女中さんかお弟子さんが作っている(しかし、氣はどこに行ったのか。お弟子さんに稽古として氣を込めて作らせていたか?)。

このメニューを日々の雑事に追われながら、夫婦二人だけで作るのはものすごく大変。無理です。
今現在、我々夫婦は二人で子育てしていますが、これは不可能。
例えば卵にしても、産んでから3日以内のもの、とあって、その為、わざわざ車で神奈川県まで買いに行っていたわけです。卵の為だけに……。卵6ヶで400円です。
肉にしても、まともな国産の肉は高いです。
野菜も無農薬減農薬のものしか食べさせていないです。
高いし、とんでもなく手間もかかるわけです。

しかし、私は今の日本人の身体が弱いのはこの13ヶ月までの栄養の不足が多大な影響を与えていると仮説を立てているので、かなりの努力をしています。
この13ヶ月の栄養は後から埋め合わせることができないとされているからです。

それにしても、上記3冊には情報があまりないのです。
あれこれ読んでもやり方がわからない。どのくらいの量、どのくらいの頻度で与えていたのか、正確なところが全然書いていない。
感覚で、と言うが、昭子さんの『子育ての記』を読むと、肝心なところはすべて野口先生頼みで、実際に野口晴哉以外で整体育児が出来た人間はいるのだろうか。
師匠に聞くと、岡島瑞徳先生が本に書いてある通りに完璧に進めようとするので、最初の奥様はノイローゼのようになって、野口晴哉の本をすべて捨てたと言っていた。
たしかにそうなると思う。

肉を磨り潰して柔らかくというが、ミキサーを使っても、どうしても筋が残ってしまって、赤ちゃんは飲み込めない。
瓶詰めのペーストを買おうと思っても、砂糖とか余計なものが入っているものしか売ってない。
白身魚は、ほぐして与えて結構食べたなと思っても、よく観ると上顎に貼り付いていて、ほとんど飲み込めていない。喉につかえて、ケホケホいっているから慌てて口に手をいれて取り出した。

完全なる加工も不可能ではないだろうが、手間と時間がかかりすぎる。
レバーのペーストと書いてあるんですが、鳥のレバーは痛みやすいから買い置きできませんからその日のうちに買ってきたものを2時間くらいかけて処理して、
すごく時間をかけても、ほんとうに少量しか飲み込んでくれない。
生活が成り立たないです。

ドラッグストアにはインスタントの離乳食が売っているが、どこの肉かわからないようなものが使われている。何も原産国が書いてないものは中国製なんだろう。

6ヶ月でおむつを取ったことを、よく決断したみたいに昭子さんの本に記してあったが、何度もいいいますが、女中さんもお弟子さんも野口晴哉も居てで、お屋敷も広いしの処なら、6ヶ月でおむつからおまるへの移行もそんなに難しくはないでしょう。粗相をしても自分が片付けるわけではないのだから。
今の私どもの狭い賃貸でうんこ漏らされたら、1時間以上時間が潰れるんですよ。

実際のところ整体育児の実践は相当程度の経済的資本がないと不可能です。これは整体に対する感覚的才能や稽古量以前の問題です。本を読めば捕食に関する理屈はある程度わかるのですが、正確な整体による育児法は文章化されていない。
実際には野口先生のカリスマ性と直観がほぼ全てであって、そこから統一理論は構築できないのです。

それが答えかもしれません。
理論化できない、ということが。

しかし、こういったことも実際に実行してみて理解できたことです。
子供に感謝しています。

2020年2月24日月曜日

伝い歩きからの横に座る

立てるようになり、つかまり立ちが出来るようになってしばらくすると、つかまったまま横に移動するようになる。
腰椎2番が動いているようだ。
横に移動するという動作が重要。腰椎2番の3側を腰部活点と呼ぶが、どうも3側より2側の方が先に焦点になるようだ。意外だった。

私が洗濯物を畳んでいると、息子が横に座った。
横に座って洗濯物を畳む真似をする。といっても洗濯物を放り投げるだけだが。

ここではじめて動作を真似た、と思う。
横という感覚が発生する前は真似るという感覚はなかった。

こちらが笑った時に反射的に笑い返す、とかはあったが、なんというか、大人がやっていることを自分もやってみようという感じの真似は、これがはじめてだった。

横に座って(まだ立てないので当然横イコール座るになる)同じ方向を向き、同じ動作をする。
この型をとってはじめて、腰椎2番の3側が動くようだ。
実際にその数日で感情が変化した。

野口晴哉先生の言う、整体操法の時に、実際には厳密に座る位置が決まっている、という感覚の原初はここにあるのではないか。

他人の横に座り、同じ方向を向き、真似をする、同調する、その間合い。
これは腰椎2番で感じるものだ。

横に立つと、横に座るは、違う。
立ってしまうと、何処かに進まなくてはならないため、そこで上下と主従の関係が生じる。
つまり始まりと終わりが生まれる。
新しい時間が発生する。
そのことを否定するわけではないが、それは、まあまだ先の話だ。

息子はまだ二足歩行できない。
故に、実はその親子の間には、まだ主従は存在していない。
一体感だけがある。
この感覚が生じる位置に座る。
操法の時だけでなく、誰に対しても、何時でも、そうするべきなのだろう。