2020年5月10日日曜日

領域

子供は目が綺麗で、遠くを観ていることが多い。
失望も希望も無い目は潤っている。
この目を観るために生まれてきたとさえ、私は思った。
それはかつての私の目でもあり、かつての私の目を観る私の目を裡側から観る。

近くより、遠くを観る目の方が美しいことを知った。
スマホの画面を見る目は死んでいる。
殺されているというべきか。
目の本来の機能が閉ざされるという印象。
歩けるようになると、壁を意識する。
向こうへ、意識が向かう。

1歳ほどの子供は常に閾を感じている。
そして、閾をまたがりたがるが、同時に恐れてもいる。

扉を、しょっちゅう開閉する。
閾を感じている。
閾をまたがる感覚。
閾を作る感覚。

領域をまたぐための移動は単なる移動とは違う。

自分だけが仕切りのこっち、親が向こうだと悲しがる。

自動的に動く閾は光と闇の間の閾だろう。
毎日動く。
自分から離れ、近づいてくる。
生死の彼岸で動いている抽象的な現実。
動かせない。
毎日動く動かないもの。
この曖昧で自動化した、現実の強制力が、後に善悪の閾として、人間の生きる世界に投影されるのだろう。
海が身近にあると、もう一つ閾の移動に理論が加わる。
光と闇の間には、月がある。

暖簾に腕押し、という言葉がある。
我が国では善悪の閾は暖簾として表象されていた。
暖簾を腕で押す、という身体動作が重要だったのだが、現在では暖簾を腕で押すことはほぼない。
暖簾があると、風というもう一つの元素が加わる。
風で、目に対して扉が開く。
暖簾は目の位置に置かれる。
足の位置にはない。

そして、引き戸では、閾の領域に変化は生じないが、開き戸では方向が生じ、裡と外の領域も変化する。
光に方向が生じ、闇が一方の扉の裏に押し込まれる。

目は、横に開く扉では横に解放され、奥に開く扉で合焦され、手前に開く扉では片目になる。

いずれにしても、子供の目は美しく、美しい目は常に遠くを観ている。