子供は目が綺麗で、遠くを観ていることが多い。
失望も希望も無い目は潤っている。
この目を観るために生まれてきたとさえ、私は思った。
それはかつての私の目でもあり、かつての私の目を観る私の目を裡側から観る。
スマホの画面を見る目は死んでいる。
殺されているというべきか。
目の本来の機能が閉ざされるという印象。
歩けるようになると、壁を意識する。
向こうへ、意識が向かう。
1歳ほどの子供は常に閾を感じている。
そして、閾をまたがりたがるが、同時に恐れてもいる。
扉を、しょっちゅう開閉する。
閾を感じている。
閾をまたがる感覚。
閾を作る感覚。
領域をまたぐための移動は単なる移動とは違う。
1歳ほどの子供は常に閾を感じている。
そして、閾をまたがりたがるが、同時に恐れてもいる。
扉を、しょっちゅう開閉する。
閾を感じている。
閾をまたがる感覚。
閾を作る感覚。
領域をまたぐための移動は単なる移動とは違う。
自分だけが仕切りのこっち、親が向こうだと悲しがる。
自動的に動く閾は光と闇の間の閾だろう。
毎日動く。
自分から離れ、近づいてくる。
生死の彼岸で動いている抽象的な現実。
動かせない。
毎日動く動かないもの。
この曖昧で自動化した、現実の強制力が、後に善悪の閾として、人間の生きる世界に投影されるのだろう。
海が身近にあると、もう一つ閾の移動に理論が加わる。
光と闇の間には、月がある。
暖簾に腕押し、という言葉がある。
我が国では善悪の閾は暖簾として表象されていた。
暖簾を腕で押す、という身体動作が重要だったのだが、現在では暖簾を腕で押すことはほぼない。
暖簾があると、風というもう一つの元素が加わる。
風で、目に対して扉が開く。
暖簾は目の位置に置かれる。
足の位置にはない。
そして、引き戸では、閾の領域に変化は生じないが、開き戸では方向が生じ、裡と外の領域も変化する。
光に方向が生じ、闇が一方の扉の裏に押し込まれる。
目は、横に開く扉では横に解放され、奥に開く扉で合焦され、手前に開く扉では片目になる。
いずれにしても、子供の目は美しく、美しい目は常に遠くを観ている。