2018年4月24日火曜日

硬結

昔、講座で師匠の親指に愉氣していた時、米粒の頭のようなものに触れて、これが硬結かな、と思い、じーっと愉氣していたら、それが硬結ですよ、と言われ、そうかこれがそうなのかとさらにじーっと愉氣すると、その硬結がギュルギュルッと暴れるように動き手首の方へ走っていった。

なんだこれはと思い、今動きましたよね、と確認すると、動きましたねーと言って師匠は笑った。

それが始めて硬結に触れたときであり、その印象が未だに強く残っている。
なんというか生き物のような感じがした。

最近ふと思い出したこと。


2018年4月17日火曜日

中腰

膝の感覚を前に伸ばす。
腰を落とす。
身体を上に引き上げる。
鼠径部を締める。
手の張り、特に小指と中指。
指と脇を線でつなぐ。
すべて同時に行い、統合する。

その上で、3側2側1側でそれぞれ身体各部の捌きが細かく違ってくる。

身体捌きと氣の出方が連携している。そこが面白い。
氣が先だが、身体が型の裡に入ると氣配が変わる。



2018年4月4日水曜日

整体に型はあるか、ないか?『練習の仕方について(昭和32年9月13日)』

私は師匠から、「整体に型はない」と言われてきた。
それは師匠の実感からの言葉だ。
人を元気に出来ればなんでもいいということ。
整体のすべては氣によっている。

それはともかく、野口晴哉先生は、『練習の仕方について』という講義で、「練習は気楽にやってはいけないんです。生きてる体をかりるんですから、一つでも無駄のないようにやって頂きたいと思う。で練習の中で型をやる人は型というのは自分の体の癖をつけるんです」とおっしゃっている。

ここに野口先生の型の理解がある。
「自分の体に癖をつける練習。場所を覚える練習。それから呼吸と一緒に動作する練習、この三つが基本的な練習」とのこと。

この後、「素人の域を脱する」水準の操法の焦点を見つけ出す観察と設計の必要を説明し、そして「そこから今度は玄人の問題で、今度は人間の構造の観察が深まるに連れて操法する急所が変わってくるわけです」とある。

しかし、野口先生は前段でこうも言っている。
「押さえるというのは指の力で抑えるのじゃなくて、気合なんです。指でやる気合なんです。私は昔指を当てエイッと気合をかけて、そして操法をしておりました。段々気合を略しましたが略した気合を今度は指へ集めている」。

野口先生の言っていることは矛盾しているようだが、これは明治以前からの気合術の流れと、明治以後の海外からの医学的知識や技術も織り込んだ民間の療術との二つの相容れることのない技術体系が野口整体には混在していることによる。

私の直接の師匠は前者気合の要素が強く、そのため型はないと言う。
岡島瑞徳先生は後者明治以後の海外からの技術も含めた民間療術の要素が強かったのではないかと思う。

ここで「技(ワザ)」と「方法」の差異を明確に定義する必要があるが、端的に言うと「技」はマニュアルではなく教わった誰にも出来ることではなく、そもそも「技」を教授する際において均質な身体を前提としていない。
「方法」とはマニュアルであり、平均的な身体であるならば誰にでも適用可能なものだ。
そして明治以前の日本には均質な身体など存在していない。

岡島先生は比較的にではあるが「方法」の人であったと言える(その技術のすべてが、というのではない)。
師匠はあきらかに「技」の人なので、「型はない」と言ってしまうが、私のような凡人凡才は型がなければ「技」の内容が充実することはないよ、と思う。

ではかつての「型」は何処にあるのかというと、治療行為につながる操法の型は意図的に消去されてきた歴史がある。

つまり整体とは、真剣が中心におかれた身体操作術である古武術の型とは違って、治療のための型の歴史であり、つまり眼前の苦しむ人に対する人間性の発揮が型の中心となる。

ようするに、始めに氣があり、身体操作は二の次であり、しかしそれは明治時代以前の日本人固有の動作法を当然のこととして共有しえた時代の日本人の日本人による日本人ための氣であって、ポリティカルコレクトネスに毒された現在の日本でその氣を再現するのは不可能に近い。

2018年3月27日火曜日

柳の木

柳の木の下に立つと、全身に氣が走るそうです。
花見の際、立派な柳の木があり、その下に立ってみました。

「氣が走る」というのはよくわかりませんでしたが、氣が上から下に流れているのは感じました。
そしてなにやらそこだけぼやーっとしています。

以前、秋葉原の神社の前にあった柳の木の下ではなにも感じませんでした。
桜で氣が乱れていたからでしょうか。
今回はよくわかりました。

2018年3月15日木曜日

子宮

感応しなければ変化しないと言われている。

先日、頭を使わなければならないある用件があり、自分で氣が上がっていることがわかっていた。
なのに何故かその時、重心が下がっていった。

対面に座っている女性の子宮を自身の腹で感じていた。
感応する理由があって感応していたのだが、重心が下がり、血液が腹部に集まる感覚があり、これが子宮か、と思った。

子宮の血行がよく、腰椎3番右1側が弛んでいれば、女性はそれでよいと言う意味が体感できた。

生物学的な性別と内観的な性別は違うだろうと思う。

同性愛者を差別する氣持ちはないですが、そういった傾向性を持つ子供が、メディアで流布される同性愛者のステレオタイプに同一化する前に、教えるべき内観的な性差とその超越が存在していると思います。

自分としては、トランスジェンダーやクイアといった外来語をすぐさま取り入れて、性差に関する違和感をある特定の政治的な意図を持った概念に押し込むことには反対の立場です。
そこには慎重であるべきです。

2018年3月6日火曜日

両手を使う

片手で押さえるものではないと聞いてはいましたが。
先日、ある女性の足の四指を押さえる機会があり、最初なんとなく、ふと片手で押さえていたところ、何か違うと思い、両手で触れてみた。

すると、その自分の身体の動きが、茶碗と箸をもってご飯を食べる動作と重なった。
その時、この動きかあ、と得心した。
まったく同じ動きと感覚だったから。
基本的に日本人は何でも両手で行うことで、中心を捉えるのだろう。

考えてみれば、インド人は片手で手づかみで食事をする。
西洋でも数百年前までは手づかみだったと聞く。
韓国は茶碗をもたない。
食器をもって食べるのが、マナー違反である文化は多い。

キリスト教徒が十字を切るときも、片手で切っている。
日本では神様の前では両手を合わせる。

2018年2月25日日曜日

肌のきれいな人たち

『クレイジー・ジャーニー』というテレビ番組がある。
スラムや廃墟や辺境、変わった土地に旅している変わった人たちに密着するドキュメント番組。

観ていると出演されている方々の肌がきれいなことに気がついた。
やはり、夢を追っている方々は眼が開いている。
動き回るので、腰椎5番も弾力がありしっかりしていて、身体内の水の循環も良くなるのだろう。
拡がってゆく呼吸。毛穴。

6種体勢。
夢を見る眼。呼吸。水の循環。皮膚の張り。
D3、8、10、L1。

2018年2月23日金曜日

おじぎ

最近、妙な格好のお辞儀を店員がすることは、よく知られていると思っていた。
その意図も。
ですが最近ある場所で話した時、「知らなかった」とのことだったので、少しだけ書こうと思います。

お腹に手を当てて肘を張ってするお辞儀なんていうものは、私が子供の頃にはなかった。
絶対に見なかった。
20年前も10年前も見なかった。

日本人が礼を型として表すときに、脇をしめずに肘を張る、ということは絶対にない。ありえない。
この手のお辞儀を昔の日本人はしなかった、というのは根底的なところで日本人の動作法に感覚的に反しているからだ。

昔の華族が似た形の礼をしていた、という意見もあるようだが、それはあくまで似た形であって、日本人は絶対にあのような不躾な動きはしない。

日本人が日本人に対しての、とくに、礼儀をわきまえる時の動きが、自然発生的なものではなくなるということは、真に恐怖すべきことだ(この動作は企業が従業員に強制して始めたということは間違いがない)。

礼を動作で表すときに、どの身体のどの処に力を入れ、どこの処の力を抜くか、は長い時間をかけて、ある固有の風土とともに生きるその民族がある固有の感覚を共有し続けた結果生じるものだ。
そしてその中核には必然的に宗教的な理由が存在している。

日本人が神社で神様にお辞儀をするときに肘を張りますかね。お寺でもしません。山でも海でもしません。田んぼや畑でもしません。道場でもしません。
そのような振る舞いは無礼だからです。
身体が自然にそう感じるのです。

民族の動作法には生から死にいたるまで、一貫性があります。
それが壊れれば、民族の心、内面も破壊されます。

礼儀という最重要の動作法を破壊されれば、その一箇所から動作法の円環すべても崩壊します。
誰が何に誰に感謝してるのか、もはや自然にはわからなくなるでしょう。

当然の結果として日本人同士であっても、相手の意図、内面、心がわからなくなるでしょう。言葉の意味はわかっても、心は伝わらなくなります。そもそも心がなくなります。
精神性がなくなれば、民族の存在する意味や価値もなくなります。

精神性を身体に繋ぎとめているのが動作法です。
民族の着る衣服が変われば、動作法も変わります。
そして動作法が変われば心が変わるのです。

もう食べ物も着るものも家も言葉も何もかも変わりました。
変えられてきた、と言ってよいと思いますが、これからは動作法が直接的に変えられる時代のようです。

日本人が日本人でいることの価値も意味も感じなくなっている人がほとんどなのでしょうが、日本人が日本人でなくなるときは、日本人が自分たちで自分自身の存在の価値や意味を固定できなくなるときです。

文化がなくなれば意味と価値を固定することはできません。
日本人の生の意味と価値は、すべてドル換算で数値化され変動相場に晒されることになります。
もうすでにそうなり始めています。

こんな時代に、私が整体でやりたいことは、皆様にすべてを自身の身体から始めなおして欲しい。その指導をしたい、ということです。
そういった夢を抱いて稽古をしております。

2018年2月6日火曜日

氣の残像。氣の動き。氣の時間。氣の間。氣の言葉。

一日の裡にお二人の操法を偶然(?)見学。
快く見学を許可して頂いて感謝しています。

おひとりは過去の打撲。
インプラントの影響とのこと。この時期は股関節顎関節が動き出すので、このあたりの打撲の影響が表に出てくるとのこと。
動きを観させていただいたが、私には打撲の動きには見えなかった・・・。
20年前の打撲とのことで、腰椎2・3間と3番の左1側に愉気をしたが、なんとなく漠たる感触が雲の下にあるかのように感じた。
そして未来の身体の動きへといたる、氣の動き。その氣の残像へとその方の動きを誘導し、言葉によって方向づけ、確定する。
とはいえ、強制的な誘導ではむろんなく、その方の身体が求める欲する方向へと指導する氣の方向を阻害しないための操法全体の流れ、それ支える身体捌きに圧倒された。
操法後着手しても変化が認識できなかった。
師匠は「もう骨を対象にしてないから」と言っていた。

もうおひとりは表面上は胸椎4と9番。そこに11番が隠れている、とのこと。
詳細はここには書けないが、師匠の操法は本質的にはその方の「今の身体」への働きかけにあるのであって、過去の因縁や、未来の統制理念などから方向づけられるものでないことを理解した。
操法前と後で着手しましたが、こちらは呼吸と氣の変化がはっきりわかった。
9番での氣のひっかかりがなくなっていた。

氣の残像。しかしその氣の残像はどの時制に属するのか?

すべての始まりはその方の「今の身体」にある。
言葉にするとどうしても安直な印象を受けるが、それらが実際に個別の明確な技術に支えられていることが認識できると、眼前の操法の光景の印象の濃度はまったく違って感じる。

こういった操法は師匠独自のもので、他の人間が真似できるものでない、とも感じた。
本当に印象深い一日でした。


2018年2月3日土曜日

花月操法

たまたま丁度の間で、花月操法がその日その時必要な方がいて、師匠が「胸椎978で動いてますね、それと腰椎3と4で」とのことで、ご好意で見学させて頂いた。

花月操法とは骨盤を開いて、生理を止める操法。
なんとなく閉経になると一気に年老いるような感じがしますが。実際には、だらだら生理を続けさせず、すぱっと閉経を迎えると、「真空パック」のような感じでそこで肌のハリなども保たれるとのこと。

花月操法をしましたら、実際に、肌が薄く白くなり、目も開いてきて大きくなりました。
その方もすごく喜んでいました。

じーっと正座をして操法を観ていましたが、手順は以前に教わっていたものの、本当に必要なその瞬間の操法は稽古とはやはり違います。
勉強になりました。

もう一つ、一連の操法を観ていて、やっていることが漠然とわかるようになったが故に、やはり自分には師匠のようには出来ないなと思いました。
真似できない。

自分には自分の操法があり、その道を行くべきだと思いました。