2018年2月6日火曜日

氣の残像。氣の動き。氣の時間。氣の間。氣の言葉。

一日の裡にお二人の操法を偶然(?)見学。
快く見学を許可して頂いて感謝しています。

おひとりは過去の打撲。
インプラントの影響とのこと。この時期は股関節顎関節が動き出すので、このあたりの打撲の影響が表に出てくるとのこと。
動きを観させていただいたが、私には打撲の動きには見えなかった・・・。
20年前の打撲とのことで、腰椎2・3間と3番の左1側に愉気をしたが、なんとなく漠たる感触が雲の下にあるかのように感じた。
そして未来の身体の動きへといたる、氣の動き。その氣の残像へとその方の動きを誘導し、言葉によって方向づけ、確定する。
とはいえ、強制的な誘導ではむろんなく、その方の身体が求める欲する方向へと指導する氣の方向を阻害しないための操法全体の流れ、それ支える身体捌きに圧倒された。
操法後着手しても変化が認識できなかった。
師匠は「もう骨を対象にしてないから」と言っていた。

もうおひとりは表面上は胸椎4と9番。そこに11番が隠れている、とのこと。
詳細はここには書けないが、師匠の操法は本質的にはその方の「今の身体」への働きかけにあるのであって、過去の因縁や、未来の統制理念などから方向づけられるものでないことを理解した。
操法前と後で着手しましたが、こちらは呼吸と氣の変化がはっきりわかった。
9番での氣のひっかかりがなくなっていた。

氣の残像。しかしその氣の残像はどの時制に属するのか?

すべての始まりはその方の「今の身体」にある。
言葉にするとどうしても安直な印象を受けるが、それらが実際に個別の明確な技術に支えられていることが認識できると、眼前の操法の光景の印象の濃度はまったく違って感じる。

こういった操法は師匠独自のもので、他の人間が真似できるものでない、とも感じた。
本当に印象深い一日でした。