2018年2月23日金曜日

おじぎ

最近、妙な格好のお辞儀を店員がすることは、よく知られていると思っていた。
その意図も。
ですが最近ある場所で話した時、「知らなかった」とのことだったので、少しだけ書こうと思います。

お腹に手を当てて肘を張ってするお辞儀なんていうものは、私が子供の頃にはなかった。
絶対に見なかった。
20年前も10年前も見なかった。

日本人が礼を型として表すときに、脇をしめずに肘を張る、ということは絶対にない。ありえない。
この手のお辞儀を昔の日本人はしなかった、というのは根底的なところで日本人の動作法に感覚的に反しているからだ。

昔の華族が似た形の礼をしていた、という意見もあるようだが、それはあくまで似た形であって、日本人は絶対にあのような不躾な動きはしない。

日本人が日本人に対しての、とくに、礼儀をわきまえる時の動きが、自然発生的なものではなくなるということは、真に恐怖すべきことだ(この動作は企業が従業員に強制して始めたということは間違いがない)。

礼を動作で表すときに、どの身体のどの処に力を入れ、どこの処の力を抜くか、は長い時間をかけて、ある固有の風土とともに生きるその民族がある固有の感覚を共有し続けた結果生じるものだ。
そしてその中核には必然的に宗教的な理由が存在している。

日本人が神社で神様にお辞儀をするときに肘を張りますかね。お寺でもしません。山でも海でもしません。田んぼや畑でもしません。道場でもしません。
そのような振る舞いは無礼だからです。
身体が自然にそう感じるのです。

民族の動作法には生から死にいたるまで、一貫性があります。
それが壊れれば、民族の心、内面も破壊されます。

礼儀という最重要の動作法を破壊されれば、その一箇所から動作法の円環すべても崩壊します。
誰が何に誰に感謝してるのか、もはや自然にはわからなくなるでしょう。

当然の結果として日本人同士であっても、相手の意図、内面、心がわからなくなるでしょう。言葉の意味はわかっても、心は伝わらなくなります。そもそも心がなくなります。
精神性がなくなれば、民族の存在する意味や価値もなくなります。

精神性を身体に繋ぎとめているのが動作法です。
民族の着る衣服が変われば、動作法も変わります。
そして動作法が変われば心が変わるのです。

もう食べ物も着るものも家も言葉も何もかも変わりました。
変えられてきた、と言ってよいと思いますが、これからは動作法が直接的に変えられる時代のようです。

日本人が日本人でいることの価値も意味も感じなくなっている人がほとんどなのでしょうが、日本人が日本人でなくなるときは、日本人が自分たちで自分自身の存在の価値や意味を固定できなくなるときです。

文化がなくなれば意味と価値を固定することはできません。
日本人の生の意味と価値は、すべてドル換算で数値化され変動相場に晒されることになります。
もうすでにそうなり始めています。

こんな時代に、私が整体でやりたいことは、皆様にすべてを自身の身体から始めなおして欲しい。その指導をしたい、ということです。
そういった夢を抱いて稽古をしております。