2017年8月23日水曜日

全身の冷えに対する操法、歯の打撲の処置

D10で動いていると。
全身の冷え。
頭部第2を押さえられ、寝相を指摘される。
D12で考えていて、また、思考している対象と分量が、私の頭の許容範囲を超えている。
そこで、頭の暴走を冷ますために、無意識に無為の動作で寝ているときに、左足を冷やしているとのこと。
そこから、全身が冷えている。
具体的には、布団から左足だけ外に出しているらしい。

よく身体を冷やしてはいけないというが、身体に悪くても、頭がハングアップしてしまうのを防ぐために、自動的に寝ているときに自分で冷やすことがあるということ。
D10を萎縮させて血液が脳に廻らないようにしていたのだろう。

妻の歯の治療による打撲に対する操法も横で観ていて、その技術の高度さが、以前よりも明瞭に把握できて、自分の眼もずいぶん変わってきたことを実感した。

知っている、観える、できる、ということは、どれか一つだけが突出することはやはりなくて、すべて同時進行で自分自身の一つの身体の裡に、生成されるものなのであろう。

その他、「これから左手が変わってきますよ」と言われてうれしくなった。

2017年8月20日日曜日

『整体操法読本巻二実技』

個人的なメモ。

ここに書きとめられているすべての技術は、実際にこの水準に達している指導者の技を身を持って感覚していない限り、誤読は必至だろう。
型と技を護ってきた先達に対する敬意を忘れてはならない。

そしてそういったことに思い当たると、そもそも日本文化とは何なのか、近代化とは何なのか、という問いに直面せざるを得ない。

さらには、そういった問いのほぼすべてにすでに回答がなされている。
それが現代であろう。

現代の日本人に与えられている課題はすでにすべて指し示されていると思うが、どうか?
地球上のすべての民族に敷かれている道はすべてが茨の道なのだろう。
たいへんなことだがやるしかない。

2017年8月19日土曜日

着手、1側の型

着手の稽古。
稽古というより、師匠に実演して頂く。
着手のみで、水平、垂直と入り、操法点、体癖、体勢、波と観ていく。

1側の型。
捩れているD5の2側を押さえる。
D5の棘突起が飛び出したところで、1側の処理に入る。
型を取ると「太い太い」と言われる。
1側を押さえる私の頭部第3を、師匠が押さえ、私の身体を引き締める。
線が細くなり「そのまま、そのまま」実際に自分指が細く感じる。
身体の中心にできた線を、そのまま横に移動させることで1側を弾く。
身体が太いままだと、1側の硬結には触れられない、とのこと。


2017年8月14日月曜日

『整体操法読本巻一総論』

過去の資料に対する、個人的なメモ。

タイトルにあるように、整体操法の「総論」が述べられている。
最も重要なのは解剖学的な人体観とは違うところを整体では観察をして操法をする、というところ。
ぼーっと読んでいると、なんとなくの理解になってしまうが、相手の感受性を主に指導するというあたりは、整体とは科学的なアプローチでは絶対にない、ということで、これはまじめに読めば、少なからずのショックが与えられる。

理論ではなく、生命に根ざした治療行為である、という点も、言葉にするとあまりにも陳腐になってしまうが(本書の執筆は昭和22年。終戦後間もないので、当時の日本人にとっては陳腐な言葉などではなかったであろうが)、そうとしか表現できないことだろう。

それにしても、この本を現在の平均的な日本人が読んでも、誤解しかできないであろう、と思った。再刊されない理由もよくわかる。

しかし、本当に重要な資料だ。
読めば読むほど、深みに嵌る。
何かに到達している。
理にかなっている。
氣で一つになる。

2017年8月12日土曜日

48類

師匠に48類の話を聞く。
衝撃を受ける。
手順を聞くがとても真似できない。
そもそも一般化可能だろうか。
方法でなく、技であり。
そして感覚の技である。

私は「ち」であるとのこと。

2017年8月9日水曜日

白内障の操法

縁あって、というか、たまたま、白内障と診断され手術を受けようかと考えている方の操法を見学させて頂いた。

すべては師匠とその方のご好意。

D10とL2・3が操法点。
動き出しはD10。

事前に動作を観察。
椎骨の触手で観察。

操法を進めながら、随所で、私も背骨や後頭部など、触らせて頂く。
変化が如実にわかる。

その速度、間合い、呼吸、正確さ。

操法終了後の身体の変化は、大きくもあり小さくもあった。

ここが操法点である、という見極めと、実際の操法による変化をみて「これでよし」とする見極めは本当に難しい。
野口先生が書かれているように、実地に経験する以外にない。
このような得がたい経験ができて、感謝以外の言葉はありません。
ありがとうございました。

眼鏡

眼鏡をはずし自転車に乗る。
すると、空がすごく広く見える。
地も視界に入る。
こんなに広くてたくさんのものが目の前にあったのか、と思った。

コンビニでの買い物の帰り、今度は眼鏡をかけてみる。
よく見えるけど、周辺の視野が削られる。
目の前の道路しか目に入らない。
運転するにはいいけど、ものすごく視野が狭くなってしまう。

眼鏡は生活するために仕方なくかけている、という認識でいないと、感覚が狂ってしまうな、と思った。

2017年8月8日火曜日

下駄で裏山に

稽古をかねて妻と下駄を履いて裏山を散策。
靴でなく下駄を履くと、確かに腰椎4番で山を登るかたちになる。
靴だと腰椎5番にしか焦点が集まらない。

腰椎4番で登る山と腰椎5番で登る山では、その体験の意味が違ってくるだろう。

たくさん蚊に血を吸われてまいったけど、自身の身体を違った視点から内観できたので良い経験になった。
一年ぶりに山頂の稲荷神社にご挨拶できたのもよかった。

いつもとまったく違う処が疲れましたが、昔の日本人は皆こういった身体の使い方をしていたのかと思うと、気が遠くなります。

戦前の日本人が創り上げた技術体系を、この平成の世に生きる我々が学ぶことは、非合理の極みであらざるを得ないので、やはりこの道は茨の道なのだなと思います。

2017年8月5日土曜日

妻の操法

突然、師匠の目の前で妻の操法をすることになる。
歯の治療からくる甲状腺の異常。
中頚とD4を操法の対象とする。

実際の操法の内実とその評価は略。

操法後、L3の1側の状態を観て、子宮の血行が良くなっているから、まあ良い、との評価。
冷や汗が出るが、経験を積むよりほかない。

2017年7月29日土曜日

『岡島瑞徳講義録 平成15年度第12講 中等講座 腰椎3番の気の傾向』

中等講座は岡島先生の講義録を元に稽古を行っていて、今月は体勢の稽古。
昔の岡島先生のこの時点での認識と、そこから、十年以上経った現在の師匠の認識を比べながら稽古を受けることができるのが、私の利点だろうか。
私は動画撮影も許されているので、メモなどもとらずに目前の身体に集注することができるのもありがたいことだ。

体勢とは野口晴哉先生がなくなった後に提唱された概念であるとのこと。

感覚の世界なので、非常に難しい。

私の身体を観て、師匠に上下の体勢でD8が上がっていると言われる。
本来D1~4までが上下転移しているのはいいのだけど、D8が上がっているということは、水落で突っかかっているからだと、だから水落が弛まないんだ、と。
この場合、水落が固いのは、固くなるような考え方をしているからだ、と言う。
私が「考え方が間違っているから?」と聞くと、うなずく。

そして、上下のゆさぶり、それからD8の1側を弾くと、左右体勢へ変わる。
この時、私の腹が鳴った。
「上下の人のD8を押さえると、お腹が鳴ることが多い」とのこと。
だが、考え方を根本から変えないと、またそのうち水落は固くなる。

この日の収穫は、その人物の考え方の間違いは、身体に触れればわかるということ。
身体がその考えに抵抗している、と言い換えることもできるだろうか。
つまり、その人物のその思考はその人物の身体から湧き出て来たものではなく、誰か他の人物から植え付けられたものであるということ。