2017年8月9日水曜日

白内障の操法

縁あって、というか、たまたま、白内障と診断され手術を受けようかと考えている方の操法を見学させて頂いた。

すべては師匠とその方のご好意。

D10とL2・3が操法点。
動き出しはD10。

事前に動作を観察。
椎骨の触手で観察。

操法を進めながら、随所で、私も背骨や後頭部など、触らせて頂く。
変化が如実にわかる。

その速度、間合い、呼吸、正確さ。

操法終了後の身体の変化は、大きくもあり小さくもあった。

ここが操法点である、という見極めと、実際の操法による変化をみて「これでよし」とする見極めは本当に難しい。
野口先生が書かれているように、実地に経験する以外にない。
このような得がたい経験ができて、感謝以外の言葉はありません。
ありがとうございました。

眼鏡

眼鏡をはずし自転車に乗る。
すると、空がすごく広く見える。
地も視界に入る。
こんなに広くてたくさんのものが目の前にあったのか、と思った。

コンビニでの買い物の帰り、今度は眼鏡をかけてみる。
よく見えるけど、周辺の視野が削られる。
目の前の道路しか目に入らない。
運転するにはいいけど、ものすごく視野が狭くなってしまう。

眼鏡は生活するために仕方なくかけている、という認識でいないと、感覚が狂ってしまうな、と思った。

2017年8月8日火曜日

下駄で裏山に

稽古をかねて妻と下駄を履いて裏山を散策。
靴でなく下駄を履くと、確かに腰椎4番で山を登るかたちになる。
靴だと腰椎5番にしか焦点が集まらない。

腰椎4番で登る山と腰椎5番で登る山では、その体験の意味が違ってくるだろう。

たくさん蚊に血を吸われてまいったけど、自身の身体を違った視点から内観できたので良い経験になった。
一年ぶりに山頂の稲荷神社にご挨拶できたのもよかった。

いつもとまったく違う処が疲れましたが、昔の日本人は皆こういった身体の使い方をしていたのかと思うと、気が遠くなります。

戦前の日本人が創り上げた技術体系を、この平成の世に生きる我々が学ぶことは、非合理の極みであらざるを得ないので、やはりこの道は茨の道なのだなと思います。

2017年8月5日土曜日

妻の操法

突然、師匠の目の前で妻の操法をすることになる。
歯の治療からくる甲状腺の異常。
中頚とD4を操法の対象とする。

実際の操法の内実とその評価は略。

操法後、L3の1側の状態を観て、子宮の血行が良くなっているから、まあ良い、との評価。
冷や汗が出るが、経験を積むよりほかない。

2017年7月29日土曜日

『岡島瑞徳講義録 平成15年度第12講 中等講座 腰椎3番の気の傾向』

中等講座は岡島先生の講義録を元に稽古を行っていて、今月は体勢の稽古。
昔の岡島先生のこの時点での認識と、そこから、十年以上経った現在の師匠の認識を比べながら稽古を受けることができるのが、私の利点だろうか。
私は動画撮影も許されているので、メモなどもとらずに目前の身体に集注することができるのもありがたいことだ。

体勢とは野口晴哉先生がなくなった後に提唱された概念であるとのこと。

感覚の世界なので、非常に難しい。

私の身体を観て、師匠に上下の体勢でD8が上がっていると言われる。
本来D1~4までが上下転移しているのはいいのだけど、D8が上がっているということは、水落で突っかかっているからだと、だから水落が弛まないんだ、と。
この場合、水落が固いのは、固くなるような考え方をしているからだ、と言う。
私が「考え方が間違っているから?」と聞くと、うなずく。

そして、上下のゆさぶり、それからD8の1側を弾くと、左右体勢へ変わる。
この時、私の腹が鳴った。
「上下の人のD8を押さえると、お腹が鳴ることが多い」とのこと。
だが、考え方を根本から変えないと、またそのうち水落は固くなる。

この日の収穫は、その人物の考え方の間違いは、身体に触れればわかるということ。
身体がその考えに抵抗している、と言い換えることもできるだろうか。
つまり、その人物のその思考はその人物の身体から湧き出て来たものではなく、誰か他の人物から植え付けられたものであるということ。

2017年4月20日木曜日

意図と整体

2015年と、2009年に録音していたテープがあり、旅行に行く前にミックスダウンしていた。
全く手をつけていないので、壊れてるかと思っていた機材も動いた。

マスターテープだけ自分のために残して、機材とテープは全て処分しようと思っていたのですが、いまの身体で聴き返してみて、良いサウンドに聴こえた。

数年の時を経ると、当時の自分自身とサウンドとの間の関係を客観的にとらえることができた。
結局、わたしが音楽を通して実現したかったことは、意図を消す、ということだった。

テクノロジーの意図、自身の精神と身体の意図。
その要求の理由はわからない。
しかし、意図が消えると、そこに喜びを感じる。

若い頃と自身の志向が変わってしまっていて、最近は芸術や哲学よりも、自然に関心がある。
自身を取り巻く、環境や身体のそれそのもの。

文化が生まれる、それ以前の処に触れたい、認識したい、操作したい、という要求。
2017年の宮古島周辺の離島にはまだそれがあった。
容易にそこに触れることができた。
ただ、それほど、遠くない未来にそれらは消滅してしまうのではないか、という予感にも触れた。
現地の方々が、宮古島や伊良部島の変化に対する不安を口にしていた。

自分が何を求めているのかいまだはっきりしないが、整体を志す、というその気持ちがいまの自分の生活の核になっている。

意図を消したいという要求と、整体を志すことの関係は、いまだ自分でもよくわからない。

2017年4月16日日曜日

宮古島

宮古島とその周辺の離島へ長期の旅行に行ってまいりました。
あまりに濃密な体験であり、帰って数日経ちますが、いまだに経験したことが言葉になりません。
身体のなかがざわめいています。
すばらしい環境とそこで暮らす方々とのふれあいに胸がいっぱいになります。


2017年3月24日金曜日

小便

最近は男性が座って小便をするとのこと。

男性と女性では小便に関する考え方捉え方が違うのではないかと思う。
男性の小便の排泄には腰椎5番が関わっている。
男性は小便を前方に、女性は下方に排泄する。
男性にとっては小便が前後運動であることが自然であり、的を射るという感覚と直結している。狩猟の本能、起ち、歩き、走る、という本能と直結している。

男性にとっての起立した状態での小便は、日々の本能の確認の行為。
毎朝、的を射るために、身体を微調整するための訓練であって、この訓練を怠れば、男性性が減衰していくのは当然。

生殖器がすべてではないものの、性別の違いの決定的な違いはやはり生殖器であって、その生殖器を粗末に扱ってしまえば、性差があいまいになっていくのは必然。

それが便器を汚したくないがゆえ、という消極的な理由、利便性を常に優位においた発想によって自身の生殖器、身体を大切にしないというなら、そんなことはあってはならないことであると思う。

2017年3月21日火曜日

978操法

一息にドンドンドンと行う型が本式なのですが、9番7番8番と分解して順番にショックする型もあり、それを稽古した。
まず見本として、師匠の技を受ける。
そして起き上がり、正座で少し話をしていたが、身体が内側からカッカしてくる。

そして、やってみせろ、ということで、私が師匠を相手に一連をショックした。
それなりに形になったと思ったが、師匠は「うふふふふ」と笑い、起き上がって「この辺でだけでやってる」と胸のあたりを指す。

言われると、たしかにその通りで、全身を使っていない。
しかし、相手の呼吸にあわせて全身で動くというのは本当に難しい。
呼吸の間隙をつく、というのが「虚の活用」ということの要諦なのだろう。

師匠に、操法中のある身体の末端の動きについて、あえてそうしているのですか?と聞いたら、えっそんなふうにしてる?とのことで少し驚いていた。
できるようになると、もう、細部の動きは意識しなくなるのか、と思った。

2017年3月16日木曜日

管理人さん

道場はマンションにあるのですが、そこの管理人さんが捩れの人で、駐車場の車の駐車の仕方などでわざわざ道場にまで来て文句を言ってきたりしていたので、私は好きではなかった。

ところが、ある日のこと、エレベーターに乗ったら、その管理人さんも乗ってきたことがあった。
その時なぜかすごく丁寧でハキハキした挨拶をした。
別にそうしようともそうせねばとも思わずに、なぜかそうした。
普段はぼそぼそ話す私が。

それ以来その管理人さんとの関係は良好になり、会うたびににこやかに挨拶を交わすのであるが、実にふしぎ。
嫌いだったはずが一切の感情的なわだかまりがなくなってしまった。

人間とはふとした瞬間にそうなるものなのかとも思うが、それにしてもふしぎだ。