2019年9月18日水曜日

赤ちゃんの求めるもの、3つ

赤ちゃんの求める3つのこと。

お腹が空いた。
おむつが濡れた。
身体の位置が悪い。

それぞれ泣き方でわかると野口先生はおっしゃっていて、そんなことが本当に自分でわかるのかな、と思っていたが、実際に赤ちゃんと毎日一緒に過ごしていると、大体わかるようになる。

また、この3つの泣き方がじょじょに、わかりやすく変化していく。時間の経過とともに。
まるで原初のことばのように、泣き方が明瞭に分化していった。

最初の裡は頑張って布おむつにしていたが、この頃はよく泣いた。布おむつは小便をすると気持ち悪いのですぐに泣く。
夜中に何度も起こされた。
途中で梅雨になり、おむつが乾かなくなったこともあり、紙おむつに変更したら、泣かなくなった。
最新の紙おむつは一度や二度小便をしても、サラサラなので、気持ち悪くならないようで、あまり泣かない。
この事実は軽いショックだった。
紙おむつによって、母親の負担は大分軽減されたと思うけど、自分が小便をしたことに気が付かない、という感覚の鈍磨は教育上正しいのだろうか、と悩んでしまう。

とはいえ、布おむつにも、欠点があり、それは足がM字のまま固定されてしまうので、股関節に余分に負担がかかるということ。
最近の紙おむつは足が伸ばせる。
布おむつの時は、おむつを外した瞬間に、うーん、と足を伸ばして必ずのびをしていた。
紙おむつは普段からわりあい自由に足を動かしている。

もし、私がどちらをとるか助言するとしたら、余り氣張らない方がいいですよ、と。
先はまだまだ長いので、氣楽に……。

2019年9月17日火曜日

身体操作の偏移

子供。
産まれてから、最初左右型のように振舞う。
左右体癖かどうかはわからない。
しかし、寝返りをうてるようになってから、左を上にして眠ることが多い。人間は通常重心側を上にして眠るのですが、立姿はおろか、ハイハイもまだなのに、左重心という表現が正しいのだろうか。
消化器がよく働くがために、腰椎2番と4番に特徴のある左右の動きが出ているのかもしれない。

そこから、上下的になる。
上下的、というのは3ヶ月頃から、首が座り始めるところで、うつ伏せになって首を持ち上げる動作がそれで、この動きでは腰椎1番を緊張させることになる。
自らの意思でうつ伏せになる時に、始めて上下の感覚が生まれている。観察していたら、うつ伏せになった赤ちゃん自身に驚きの表情があった。
上と下の感覚がここで始めて生まれる。ということは、この時に眼が身体と連携して、脳内に浮かんでいる映像と身体の動きが連動しはじめたといえるのだろう。
また、これが、首を意識的に動作させるところと腰椎一番の緊張と眼の動きとも連動している。
どうも、この時期に上下型がよく動作させる部位が発達するようだった。

野口先生が『育児の本』で書いているが、うつ伏せで寝るときは頭が疲れているから、実際にこの時期からよくうつ伏せで眠るようになる。
しかし、うつ伏せのまま、深い眠りに入ると、呼吸器が未発達のため、突然呼吸が停止して突然死することがあるとのことを、この間の4ヶ月の健診時に助産師さんに聞いた。
うつ伏せと喫煙はデータ上間違いなく、突然死と関係しているとのこと。
うつ伏せで眠っている時は、横向けにするのが突然死を避ける為の方法であるとのこと。

それにしても、我々からすると、寝ている子供を横にするのは氣が引ける。
自然な活元運動による、偏り疲労の調整を阻害することになるから。すぐ横向けに直したら、頭の疲労が取れないだろう。
しかし、やりたくないが、それなりにやっている。
死なれたら困る。

うつ伏せで顔を前に向けた体勢になってはじめて、眼が前を向く。
この時、前後の感覚が生まれる。
ここではじめて、左手で自分の後頭部を掻いた。
前と後ろ。
眼と首を使って、左右と上下と前後を視野に入れる。
その時、足は何のためにあるのか、と感じているようだ。

2019年9月14日土曜日

感情は身体の特定の部分で感じる

子供が産まれた後に来てくれた助産師さんは優秀な方で、看護師の資格も持っていた。
話を聞けば、すぐに頭がよくて身体も頑健であるとわかった。剣道と空手を子供の頃からなさっていたという。

自分は最初病院の産婦人科に勤務していた経緯から、急変する赤ちゃんをたくさん見てきたので、出産はなめられない、というような感じだった。
将来助産院で働きたい、と言ってくれる看護学生はうれしいけど、最初は絶対に病院で働いた方がいい、とも。でも、一度病院で働いて急変するたくさんの症例をみると、怖くなって、助産院では働けなくなる、とも言っていた。

この方に、我々は出産後、少し疑われた。
自然派育児、みたいな人たちの中には、陣痛の時間などをわざと助産師に嘘をついて、自分達だけで出産を行うようなグループがいるそうで、我々も整体式で産む、と言っていたので、その手なのではないのか、ということで疑われたのですが、さすがに私も、41歳の初産の妻の出産を自分一人だけで仕切る度胸も技術もないですよ。

とはいえ、どう考えても感じても、夫婦だけでの出産になったのは、息子が、我々以外の人間の手を介在させることを嫌がったからだ。それ以外の理由は存在しない。
この日しか、親子三人での出産になり得なかったから、早めに息子は出てきたんだろう。
普通の人にこの感覚がわかるものなのかわからないが、息子にとっては、産まれてから始めに触れて欲しかったのは私だったんだろう。
お腹にいるときにずっと愉氣していたからわかる。
263日以前に生まれると早産なのだが、数字などどうでもいいのだ、とこの時に直感した。
早産か否かなどたいした問題ではない。
感覚的に通じ合っているかが最重要。
自分からこの世界に出て来るんだ、という勢い。
意思などではなく、勢い。言葉も思考もないのだから、勢い以外にはなにももたない。
勢いがあるなら、数字を無視してよい。
これが整体の原理。
私はこれを感じた。
息子は私にこれを教えたかったんだろう。

それはともかく、この助産師さんの言うことで感心したのは、感情は身体の特定の部分で感じる、という言葉。
ずっと、抱いていて、自分の身体から乳児を離すとき、赤ちゃんは、胸と足で恐怖心を感じるから、胸と足は最後にゆっくりと自分の身体から離すこと、と生まれたばかりの息子を抱いて、布団に降ろして寝かせながら我々に説明した。

2019年9月9日月曜日

股関節

息子の両足を、胸に向けてぐーっと折りたたんで近づけると、左が弛い。
これは産まれた時から。
立ち歩きを始めますと、この弛い方の股関節が、逆に固くなる、と言われています。

岡島瑞徳先生の平成17年6月12日の中等講座の第3講に於いて、男と女の股関節の問題が語られています。
ここで岡島先生が発見された、男女の股関節の相違に関する仮説を野口先生の高弟であった吉田順平先生に電話で聞くと、整体では昔からそういうふうにいわれている、とおっしゃったというくだりは、ちょっと面白いです。
楽屋落ちみたいな面白さなのですが、一生懸命整体を研究して、新発見した、と思っても、元々そう伝わっているよ、と言われてしまう世界なわけです。
しかし、自分の力で発見するのと、最初から懇切丁寧に教わる、というのはかなり違うことなわけなのですが。

それはともかく、産まれた時からの股関節異常は、栄養状態がよくないからだ、と野口先生の『育児の本』には書かれています。
これを治すには13ヶ月までの栄養がすべてであり、この期間に栄養を満たさないと、その後にどんなに栄養を与えても、もう満ちることはないとのことです。

2019年8月15日木曜日

大人並みに話しかける

むしろ、腹の中にいた時はそれなりだったけれども、赤ちゃんに対し、大人並みに話しかける、ということは出来てない。

野口先生は赤ちゃんに対しても、大人並みに話しかけてから、行動していたという。

目の前に、小さい、言葉が正確にわからない人がいて、手がかかるという状況だと、いちいち大人にするように、言葉で説明してから、行動に移すということは、非常に難しい。

やってみればわかる。寝不足で、疲労が積み重なっていれば、それはかんたんなことではない。

子供が産まれてからわかったことだけど、本来、子供とは夫婦二人だけで育てるようには出来ていない。
もう少し大きい単位の家族で育てるものだと思う。
理屈はいらない。
そう出来ていることは、自分で育ててみれば実感できる。

伝統的な家族形態を破壊し、忙殺される核家族のその間隙に、隙を突いて、さまざまなものやことやが入り込んでくる。
それは強制ではないが、他に選択の余地は無い、というあり方で、強制される。

一番必要なのは時間だが、時間を金で買う、という発想に至ると、すべてそこで手詰まりとなる。
そもそも、国際金融資本によって、時間と言葉の意味が一元的に管理されているので、さらに逃げ場が無くなる。

こういうことをぶつくさ子供に、独り言のように話していると、妻に怒られるわけだが、私がしたいのは、息子を大人並みに扱うということだから……。

2019年8月14日水曜日

263日か273日かの問題

2018年10月3日の本ブログの記事に於いて、受胎から出産までの日数の問題を書きました。

その受胎から出産までの野口整体に於ける、正規の日数ですが、過去の資料を調べていて確認がとれました。

昭和46年1月14日の「受胎、妊娠の問題」という整体操法講座の講義録を拝読いたしましたら、38頁に「やはりちゃんと二百七十三日いないと駄目なんです」とあります。

これは野口晴哉先生の言葉ですので、すくなくとも昭和46年までは胎児は最低273日間お腹の中にいることが正規の日数であり、これより早く産まれた場合は早産であると、当時の整体協会に於いては規定されていた、といってよいでしょう。
それが岡島瑞徳先生が、整体協会で教わっていた時期には263日になんらかの理由で改められたようです。

どちらの日数が正しいのか、誰が日数を変えたのかは、正直言ってもうどうでもよくなりました。
何故なら、私の息子は263日に達する前に生まれたからです。
ただ、私の気質として、正しい日数がわからないと気持ち悪かったので、個人的に納得できてよかったです。
この問題はこれで終了いたします。

2019年8月13日火曜日

赤ちゃんを抱いて歩くと

息子を抱いて歩くと、股関節が引っかからない。
私は捻れ体癖なので、股関節が狂っている。
捻れ体癖の人は皆、股関節が狂っている。

息子を抱きながら歩くと、足がすいすい前に出る。
足が中心に向かう。
何故だろうか。

私の身体が自動的に息子に同調するため、かんたんに鳩尾が弛み、大切なものを落とさないように腹の前で抱えるので、自然に腹部第3(丹田)に力が満ちる。

捻れ体癖だから、腰椎3番の捻れは取れないものの、余分な力みが抜け、左股関節が弛むようだ。

何も稽古していないのに、歩法が変わる。

始めはそれを喜んでいて家の中を調子に乗ってうろうろ歩いていました。そうしたら、またじょじょにおかしな歩き方になってきた。

そこで、師匠の操法を受けたら、左手首の狂いからくる、左骨盤の後屈ということで、足を払われた。

抱っこするときに、赤ちゃんは、こちらの抱きやすいように抱かせてくれない。
抱いて欲しいように抱くから、こちらの手はおかしな形になる。
気付かないうちに無理がきて、左の手首が狂っていた。

少なくとも私の息子はものすごく厳密に角度がある。
外から人が来て抱っこされると、困った顔で私に助けを求めてきたりする。

息子が崩れると、私も崩れる。
私が崩れると、息子も崩れる。
間に、操法が介在する。

2019年8月6日火曜日

初めて触れたのは

我が子が産まれて初めて触れた人間が私である。
生涯に渡り我々の生に浸透していく感覚がそこにある。

妻は息子を立ったまま産んだ。
私は、頭を出した息子に、手を差し出した。
床に落下しないよう細心の注意で息子の頭を支えた。
妻が産み落とした、息子を、私が受け止めた。
急なことで、手を洗っている暇など無かった。

その時の息子の頭の感触はいまでもはっきりしている。
その光景も感覚の裡にある。

息子が初めて触れられた相手の手が、ゴムの手袋をしていたのでは可哀想だと思う。
自分の出生時がそうだったからそう思うのか。
私自身は早産で、産まれてすぐに母親から隔離された。
そんなことは記憶にないが記憶にある。

母体が仰向けで出産するのは本来ノーマルではないのだろう。
産み落とす、取り上げる、というのが本来なんだろう。
あの時、息子を落とさないで、取りこぼさないで、取り上げられたのは生涯の自慢である。

産まれてからも、息子は、私が抱くと、私を前面的に信頼して、身を預けてくれる。
まったく不安や恐怖を感じていなかった。

息子は、自分を母体から地上に取り次いだ人間が誰だか明確に知っている。
最初に、安心を、私が知らせた。
この事実は我々の残りの人生に多大な影響を与えるだろう。

2019年8月4日日曜日

布おむつ

最初は完全に布おむつだった。
意気込んでいたので。
夜にも2、3時間ごとに起きて、おむつを替えていた。
紙おむつと違い、布おむつは、赤ちゃんのお尻を拭いた後にも、うんこを洗い落とさないといけない。眠い目をこすりながら。
これは本当にきつかった。
また、起きる度ごとにミルクを飲ませる。

あまりにもたいへんなので、2ヶ月位から、紙おむつを併用にした。
うんこしそうな時は紙おむつ、うんこ直後からしばらくは布おむつ。

凄く楽になり、今までは何だったのか、と夫婦で笑った。

梅雨になり、布おむつは乾かないので、完全紙おむつに移行。
超かんたん。

赤ちゃんが触れる最初の感覚は、科学的につくられた合成繊維ではなく、綿がよいと思っていた。
いまでもそう思いますが、それよりも、エネルギーを割くべき、もっと大事なことがある、とも思います。
頑張りすぎはよくない。

エネルギーは有限なので、配分を間違えないようにしないと、肝心なところでミスが生じます。

とはいえ、最初期に触れた衣服が、合成繊維でなくてよかったと思います。
その感覚は潜在意識に入ると思う。

2019年7月6日土曜日

光を追う

2ヶ月過ぎたくらいのことだろうか。
子供が、扉の先の光などを眼で光を追うようになった。
その方を見る。

人間の眼は闇を追うことなく、光を追うように本能づけられている。
始めからそう方向づけられている。

音の中から闇が生まれ、闇の中に光が生じる。
本能の順序。
そして、始めの音の裡には声と言葉が含まれる。
音が先か、声か、言葉が先か?

梟などは、闇を見る。
光には眼を閉ざしている。
梟にはハンターの性質として、始めから音も声も言葉も無い。
彼らは、影から産まれ、影の裡で死ぬ。

人間と梟は対立していると思う。
象徴の裡で。
本当の知性を授けるのは、梟か蛇か?
その知性は象徴的な知性なのだろうか、現実的な知性なのだろうか?

いずれにしても、人間の運命として、闇の中で光を眼で追っている。この時、身体は思うように動かない。
いまだ親の腕の中に居て、そこが常に居るべき処となる。親の責任は重大ということだ。

そして数ヵ月後、光へと歩きだし、象徴の世界に足を踏み入れる。