我が子が産まれて初めて触れた人間が私である。
生涯に渡り我々の生に浸透していく感覚がそこにある。
妻は息子を立ったまま産んだ。
私は、頭を出した息子に、手を差し出した。
床に落下しないよう細心の注意で息子の頭を支えた。
妻が産み落とした、息子を、私が受け止めた。
急なことで、手を洗っている暇など無かった。
その時の息子の頭の感触はいまでもはっきりしている。
その光景も感覚の裡にある。
息子が初めて触れられた相手の手が、ゴムの手袋をしていたのでは可哀想だと思う。
自分の出生時がそうだったからそう思うのか。
私自身は早産で、産まれてすぐに母親から隔離された。
そんなことは記憶にないが記憶にある。
母体が仰向けで出産するのは本来ノーマルではないのだろう。
産み落とす、取り上げる、というのが本来なんだろう。
あの時、息子を落とさないで、取りこぼさないで、取り上げられたのは生涯の自慢である。
産まれてからも、息子は、私が抱くと、私を前面的に信頼して、身を預けてくれる。
まったく不安や恐怖を感じていなかった。
息子は、自分を母体から地上に取り次いだ人間が誰だか明確に知っている。
最初に、安心を、私が知らせた。
この事実は我々の残りの人生に多大な影響を与えるだろう。