2020年10月31日土曜日

不思議

息子が欠けた月を観て「まんまる」と言う。 
何故か。
教えてもいないのにわかる。
月の本性が「まんまる」だということ。
欠けた月も満月も同じ月であると知っている。
それは認識しているというより、知っている、という感じ。
毎日月を見せているわけでもないのに。
実に不思議だ。

仮説としては、見ているのではなく、観ているのだということ、つまり息子は月を感じている。
目で月の形象を視認しているのではない。
だからつまり、光を見ているのではなく、闇を感じているということだ。
何の闇をかというと、月が浮かんでいるその周囲の闇だ。
闇が際立たせている。
目に集注しすぎると、闇を感じられなくなるということだ。

闇は目の裏、背中、足元からやってくるから、そこを感じられないと、氣が、そこから欠けてくる。
私は月に集注すると、まるい印象を受けるようになった。

2020年10月30日金曜日

数字

1才7ヵ月で数字を少し憶えた。
駐車場を歩いていたら、車のナンバープレートを指して「ご」とか「に」とか言う。
私が「これはごーにーななさん、だよ」などと訂正すると、それなりにその訂正に反応する。

しかしどうも数字の5と2のフォルムに反応していて覚えたようだ。
それ以外の数字は反応が鈍い。
また、SUZUKIのエンブレムの「S」も「5」に見えるようで、「ご」と言って反応していた。
この種の形態が好きみたいだ。

覚えたきっかけはエレベーターのボタンをいつも押したがるので、抱っこして押させていたのが大きいと思う。
人がいないときはすべてのボタンを押させながら、押した数字の読み方を私が発声していた。

野口晴哉先生は数字や算数は小学校に入るまでは教えない方がよい、というようなことをおっしゃっていたと思うが、少し教えてしまった。
身体感覚が発達する前に抽象的な思考させないためではないかと思うが、人間の発達には偶然やタイミングが大きく関与する。
教育は子供のその時その瞬間の関心を初発にしたいので、私は聞かれれば何でも答える。
因みに息子には自閉症的な傾向は今のところまったくない。
私には少し自閉症的な傾向があるのですが、遺伝しないでよかった。

2020年10月26日月曜日

腹部第4

子供が夜泣きをした。

腹部第4を弛めるためのようだった。
昼に多くの人に会ったのでストレスを感じていたようだ。
感情が鬱滞すると腹部第4が固くなる。
泣けば弛む。
泣くことは必要不可欠なこと。

大人でも必要か?
正直いってそれはわからない。

考えてみると、泣くという行為はとても不思議だ。
何故涙が出るか。

悲しみ苦しみ痛み。
感情が臨界を超えると涙が出る。
それにしても、何故目から水分が出るのか。

夜泣き中、息子はひたすら泣いて叫んでいた。
抱っこしても収まらない。
エネルギーが鬱散され腹部第4が弛むと、寝た。

この腹部第4、固いと、押さえて弛めるのだが、どうやって弛めるか?
押さえて弛むか?
泣き叫んで、やっと弛むものが。

大人はかんたんに泣けない。
子供はかんたんに泣く。
身体の構造が違うからだが。
泣きたくても泣けない大人の身体に如何にして触れるか。考え込むと、よくわからなくなる。
きっと考えないで触れるのが最善なんだろうが、それにしても難しい。

2020年10月22日木曜日

ことばのまえ

ことばが一才半でまったくでないお子さんがいると聞きました。
詳細な状況はよくわかないので、あくまで推測なのですが、ことばのまえにそもそもその子は声をだせないのではないでしょうか。

声というのは大声のことです。
大人の常識からすれば、なのですが。

自分の子供を観ていると、このくらいの子供は声の音量をまだ調整できない感じがします。
自分の声が大きいか小さいか、まだあまりわかっていないです。

この時期は、脳よりも喉の発達を優先するべきだと感じます。
大声をだすな、といわれている子、また、住宅事情により大声を出すことが、無意識の水準で禁忌とされている家庭のお子さんは喉が締まると思います。
その状態でことばは獲得し難いと思います。

我が家は都内ですが田舎。
人気のない団地ですので、上下左右の部屋に人が住んでいません。
ですので大声出し放題です。
深夜に泣いて叫んでも、飛んだり跳ねたりしてもまったく苦情はありません。
子供が騒いでも我々夫婦の精神状態は平常です。
移動は車、行く先はスーパーやモールのみですので、へいちゃらです。

ベランダで月を見て大声で「まるまるっ!」と叫んでいます。
声量は氣になりません。
子供を育てる環境としては、大声を出せて暴れられる環境を私はお勧めします。

こえがあってことばが生まれる。
ほんとうはそのもっと前にうたがあるわけですが。

2020年10月11日日曜日

公園で子供たちをぼーっとみていると

ほぼ毎日公園で子供と遊びます。
妻と子と私の3人だけで、毎日過ごしています。
今年は特に、コロナのこともあり、また我々は子供を保育園に預けておりませんので、毎日3人だけで過ごしています。
誰も訪ねてきませんので、気楽なものです。
何時かはこの幸せな三角形が終わりを迎えます。
息子が言葉を憶えるまでの人格形成上の最重要の短い期間に、ほぼ3人だけで生活できたことを何者かに感謝せざるをえません。

ところで、公園で子供を遊ばせている間に、他の家の子供たちが遊んでいるのをぼーっと観ていると変な感覚になります。
とくに昭和の時代に作られた年季の入った公園ですと、40年くらい前にタイムスリップしてきて、自分がまだ少年で周りの子供たちとお友達のような氣がしてきます。

子連れでなかったら、たんなるやばいおじさんなんですが、子供が居ますので怪しまれません。
じーっとその感覚に集注していますと、3才より以前のもうスッカリ忘れていた記憶が蘇ってきます。
それは具体的なエピソードとしてではなく、感覚です。
そうだった2才か3才の時、マンションの隣の部屋に住んでいたひとつ年上の女の子と遊んでいた時、こんな風だった、と思い出します。
それは言葉ではなんとも形容しがたい感覚と感情です。
温和な広がりのある、目や耳や口や皮膚がやわらかくなるような情感です。
あまりにそこに集注していると、子供の面倒がみれないので、あるところでスイッチを切りますが、その瞬間自分の目つきが悪くなることに氣づきます。
子供の危険を監視するのはすごく目が疲れます。

それだけの話なのですが、公園で多くの子供たちが走り回ると、ほんとうに氣の渦ができます。
たまたま自分がその渦の中に入ると、確かに、自分も子供の頃は、この渦の中に毎日いて走り回っていたことを思い出し、またそのことをずっと忘れていたことにショックを受けるのです。

ふと思いましたが、戦前や高度経済成長の時代の日本人は、周囲の建物がどんどん破壊されていったので、こういう感じで自分の子供時代を振り返ることはあまりなかったのではないでしょうか。
また、自分より世代が下ると、インターネットやヴァーチャルな世界も記憶に混入するため、こういった感覚には浸れないのかもしれません。

私のこの不思議な感覚も時代の産物で、一過性のものなのでしょう。
今の若い人たちは将来自分の子供時代をうまく思い出せなくなるような氣がします。
感覚的な話ですが。
子供時代の動画や静止画がたくさんありすぎると、当時の身体感覚には浸れなくなります。

2020年10月7日水曜日

頭部第一

子供が顔を近づけてくる。
私の手を取って、自分の顔に近づける。
私は自分の額、髪の生え際を子供の同じ処に接触させる。
子供はふふふと笑う。

この処を整体では頭部第一と呼ぶが、しかし、息子は何をしたいのか?
私の氣が上がっているのおさめたいのか。
はたまた自分の氣が上がっているのが不快なのか。

どちらかわからないが、兎に角、スーパーマーケットでの一齣。ほっと一息つく瞬間だった。
これを息子は日を替えて数回おこなった。

息子はまだほとんど言葉をしゃべれないが、おおまかに理解はしている。
うーうー言いながらこちらの手を引くことで意思を表示する。

別の時。
夫婦で軽い言い争いをしていると、息子は私の手を取って引いていき、また、もう一方の手で妻の手を取った。
3人で手をつないでいる格好になった。
喧嘩をして欲しくなかったようだ。
子供にも子供の要求がある。

1才半くらいの時の記憶は私にはない。
言葉も喋れなければ、記憶も無い、という人生の非常に特殊な時期だが、実際には感じているし、思考認識しているし、もうすでにひとりの人間として生きている。
とても不思議だ。
私は生まれてから今まで、この2才くらいまでの時間をまったく重視してこなかったが(当然ながら記憶にないので)、やはりこの時期が人生の裡でもっとも重要な時期であることを再認識した。

きっと、この時期の経験は忘れるが忘れないんだろう。
自分自身のこの時期を思い出すことが出来るのは、この時期を生きる子供に触れた時だけだ。
観るでも話すでもない。
もちろん読むでもない。
触れた時だけ。
そして、他者に触れるには、誰でも母親の胎内から外に出る必要がある。
子宮の内壁は自分の延長にすぎない。
人間がこの世に生まれてきた理由は他者に触れるためだ。

2020年10月1日木曜日

回転

1才を過ぎてから。回転運動を認識するようになった。


 ペットボトルの蓋。ドアノブ。

この二つは自然界にはほとんど存在しない構造のもの。

自分で回して開錠しようとする。


そのうちに自分も回転するようになった。

上を見上げて、くるくる回る。


この回転運動に関しては、オモテとウラの回転ではなく、上下に向かう渦巻き状のものなのだろう。

人間は出産時に、回転しながら産まれてくるわけだが、何か思い出してのことなんだろうか?