2020年5月28日木曜日

食べる

今はまだ素手で食べる。
少しだけフォークを使えるようになってきた。

実は口と手の連携は難しい。
手は手、口は口で別個に動かしてしまう。

口と手が連携したときに、顔に食欲の意識が生じて、連携の結果に満足感が感じられるようだ。
食欲に方向性が生じる、というのだろうか。
手が方向を指す。
左右二方向で、その左右二方向には常に順序がある。
左右の序列は食べる時に確立されるのだろうか。
親が子供左右どちらに座ってどちらの手で食べさせるのか、は意外に重要。

手と口が生きるために最も重要で、その次に顔がくるが、顔は様々な要素の集積となる象面なのだろう。

脳と顔は別のものだ。
情報が集積する処として、同じくらい重要だが、情報はそれぞれ別の仕方で保存さ引き出されるようだ。

意外、という程でもないけど、食べている瞬間には足は関与しない。
洋の東西かかわらず、正座でも胡坐でも、椅子に座るのでも、食事時には足が消えていたほうが礼儀に適っているようだ。

子供を観ていると、基本的なことの発見が凄く多い。

2020年5月19日火曜日

二から三

よくしゃべる言葉。

ぱっぱっ
まま
ないない

ぱっぱっ、は何にでも言う。
妻が私をパパと呼ぶのをよく聞いているから、ぱっぱっと言うのだと妻は言う。

ここに最近加わったのが。

てぃってぃっ
わんわん
にゃあにゃあ

てぃってぃっ、は興奮した時に使うことが多い。
じょじょに言語が分節されてきた。
視覚対象と発声の身体内(脳内ではない)での繋がりが出来てきたようだ。
頸で観ていくと、頸椎2番と5番の繋がりということか。

何故か2音での発声。
2は、始まりと終わり。
始点と終点。
反応。
交合。
これらを意味する、というより、意味が音を追尾してくる印象。
動作、行動の後を意味が追ってくる。
親からはそう観える。

1音というのは悟りの音だと思う。
そこに意味はない。
意味が音を追えない。
空間がない。

最近3音言えるようになってきた。
私たちが、てぃってぃってぃ、などと言っていると、てぃってぃってぃ、と真似して言う。
3は生産。
追尾してきた意味が、音に繰り込まれる。外から。
おそらく、音の遊びは3から始まる。
4になると一度円環が閉じて、安定する。
5でもう一度爆発するだろう。

2020年5月10日日曜日

領域

子供は目が綺麗で、遠くを観ていることが多い。
失望も希望も無い目は潤っている。
この目を観るために生まれてきたとさえ、私は思った。
それはかつての私の目でもあり、かつての私の目を観る私の目を裡側から観る。

近くより、遠くを観る目の方が美しいことを知った。
スマホの画面を見る目は死んでいる。
殺されているというべきか。
目の本来の機能が閉ざされるという印象。
歩けるようになると、壁を意識する。
向こうへ、意識が向かう。

1歳ほどの子供は常に閾を感じている。
そして、閾をまたがりたがるが、同時に恐れてもいる。

扉を、しょっちゅう開閉する。
閾を感じている。
閾をまたがる感覚。
閾を作る感覚。

領域をまたぐための移動は単なる移動とは違う。

自分だけが仕切りのこっち、親が向こうだと悲しがる。

自動的に動く閾は光と闇の間の閾だろう。
毎日動く。
自分から離れ、近づいてくる。
生死の彼岸で動いている抽象的な現実。
動かせない。
毎日動く動かないもの。
この曖昧で自動化した、現実の強制力が、後に善悪の閾として、人間の生きる世界に投影されるのだろう。
海が身近にあると、もう一つ閾の移動に理論が加わる。
光と闇の間には、月がある。

暖簾に腕押し、という言葉がある。
我が国では善悪の閾は暖簾として表象されていた。
暖簾を腕で押す、という身体動作が重要だったのだが、現在では暖簾を腕で押すことはほぼない。
暖簾があると、風というもう一つの元素が加わる。
風で、目に対して扉が開く。
暖簾は目の位置に置かれる。
足の位置にはない。

そして、引き戸では、閾の領域に変化は生じないが、開き戸では方向が生じ、裡と外の領域も変化する。
光に方向が生じ、闇が一方の扉の裏に押し込まれる。

目は、横に開く扉では横に解放され、奥に開く扉で合焦され、手前に開く扉では片目になる。

いずれにしても、子供の目は美しく、美しい目は常に遠くを観ている。

2020年5月9日土曜日

歩き方の変化

息子の現在の歩き方。

足首が細かく動くようになった。
第一蹠骨底に重心が乗る。
外踵が上がる。
そうすると、小指が少し柔軟に大地を掴むように動く。
足裏の皮膚も少し張りがでてきた。固いという程ではない。

この足の変化が呼吸活点につながる。
呼吸活点の動きが、呼吸を支配している。
胸が開かれ、奇声が発せられる。
この声が喉を変える。
腰仙関節と上頸の連動。

こういった繋がりが、はじめはばらばらだった身体に生じるから、異常のある処とは別の処を押さえて、身体を変化させることができるのだ、と再確認。
体運動の構造を観察して把握することが、整体を学ぶ為の王道であることに違いはない。

2020年5月8日金曜日

腰眼

息子、焦点が腰椎1番。
皮膚。
腸骨の角。

腰椎5番と足裏。
ようやく歩き始めた。

整体では栄養が足りないと、自分で探さなくてはならないがために、立ち上がり歩くのが早くなるという。
なので、我々はせっせと栄養を与えていた。

13か月でようやく気軽に歩き回れるようになった。
最近は足裏ですべてを感覚しているようだ。
ここまで足裏の感覚に集注するのは今だけなのだろう。

そこで腸骨の角、腰椎5番も連動して動き出す。
腰椎1番と5番は不可分に連動している。

なるべく裸足で外を散歩させている。
奇声をあげながら、手を挙げて、歩き回る。
真似をして自分もやってみると気持ちいい。

股関節の引き締まり。
可動性。
かんたんに立てるようになると、そこからは重要なのは股関節の可動性のようだ。
今はまだ爪先がハの字にしかできない。ハの字の状態のまま足を前に出すから、大きく身体を揺らさないと前進できない。
股関節がもっと大きく自由に動く必要がある。

若返りの急処が腰眼と教わっていた。
あまり実感がなかったが、子供を観ているとよくわかる。
若さの中心は股関節であり腰眼だ。
ここの引き締まりが腰仙関節に向かう。

2020年5月1日金曜日

音楽の趣味

息子1歳においての音楽の趣味。

竹村延和の『子供と魔法』が好きで、何度か聴かせていたが、これが反応が良くない。
子供は好きではないのだね、こういった作品は。
どうも細かい音の変化が聴き分けられないようだ。

コルトレーンを聴きながらご飯を食べさせていると(私がずっとメロディーとコードの動きに集注しながら、食べさせていたというのもあるのでしょうが)あるポイントで呻きだす。
うるさくて嫌なようだ。視覚でも何かを目で追うとき、動きが速いと眼球の動きがついていかない。
本人には消えているように見えるみたいだ。
音も同じなのだろう。
耳が音についていっていないようだ。
速度が速いと認識できない。

スタン・ゲッツならいいかと思い、CDを替えて音楽を流すと(また私が音楽に集注しだすわけですが)、始めはいいのですが、途中で飽きだす。

クラシックは概ね聴き流せます。

マイケル・ジャクソンは結構楽しんで聴けるようです。
ジャクソン5も聴けます。

初期の松田聖子は眠る時に何時もかけています。
子守唄です。

ようするに、モータウン?
ソウルミュージックは違和感なく聴けるようです。

再生芸術としては、所謂大衆音楽における音域と感情の配置が聴きやすいのでしょう。
聴きやすく作ってるからね。
聴きやすいものは聴きやすいのだね、やっぱり。

それから、大のお気に入りが、やっぱり童謡!
反応が全然違う。
とくに山野さと子さんという方の歌声が好きみたいだ。
私も一緒になって童謡を聴くのですが、これが面白い。
発見がたくさんある。
とくに詩が面白い。
へぇー、と思うようなことを歌っている。
童謡や唱歌はドラッグが関与していないところもよいのだと思う。
サウンドが独りよがりにならずに丁寧な印象。
媚びているわけでなく、ひたすら丁寧に作りこんでいる。
音数が少なくメリハリがあり、長調で聴きわけやすいところに音を置いている。
異常ではなく正常を基準としている。
というより、子供に向けて作品を作ると、その作品は正常になる、ということのようだ。