2020年9月30日水曜日

子供が親を真似する

 子供の前で、悪ふざけをしていたら、子供がその悪ふざけを真似したので、驚いた。

これまで、子供の言うことなどを親が真似して、繰り返すことはあったけど、子供が親の言動を意識的に模倣することはなかった。

これがとても不思議な感覚で、昨日までは内面を感じなかった子供に内面を感じた。

(因みに文化左翼の言う「人間に内面など無い」というような言説は完全なる嘘であり出鱈目です。)

模倣といっても、その場の状況や、その動作と言葉の面白さを理解してのことだった。

機械的なものではない。

心の繋がりがあって、はじめて面白い状況が生まれ、そこで学習がはじまる。

自分は、魂が先にあって、その後に学習があると感じている。

子供を産み育てていれば、ほぼ誰でもそう感じる。はずだ。きっと。


人工知能のディープラーニングとか話題ですが、学習の後に魂を獲得するなどということがあるわけがない。

2020年9月14日月曜日

自立というが、あるいは

 子供の成長の速度が速い。

5回ほど滑り台の階段を上ったが、1回目と5回目は足取りが全く違った。

一日が始まり、一日が終わるころには、何もかもが変化している。


子供が、急に人間のような雰囲気になるので驚く。

この間は抱っこしないで、独りで寝た。

「自立」という言葉があるが、自分から独りで寝る、ということの意味は何なのか?

抱っこを要求せずに、自分独りで寝ることは、眠りが我々と分離し始めるということなのか。

眠りというより、「寝入る」という運動が独立分離するのだろう。


独り立ちよりも、独り寝の方が重要かも。

一日を独りで締めくくる、ということは、寝ながら、独力で身体に対する頸の位置を決め、頸を弛めることが出来るようになる、ということだ。

これは親との相互運動ではなく、独りでの活元運動だ。

「立つ」ということは錐体路系での運動であり、「寝る」ということは錐体外路系での運動だ。

「寝入る」と「眠り」も運動の内実が違う。「起きる」と「立つ」も。

そして、これらの間には常に「夢」がある。

2020年9月8日火曜日

桃とバーミヤン

車に乗っていて通り過ぎるほんの一瞬だったんですが、 息子がバーミヤンの看板を見て、「もも!」と言った。

少し前に桃を食べさせていて、本人は味をたいそう氣にいって、すぐに「もも」という言葉を憶えた。

でも、そのまま忘れてました。

そうしたら、通りすがりに「もも!」言ったのでビックリ。

桃は皮を剝いて渡していたのですが、何となくわかるんですね。葉っぱも生えてなかったのに。

息子は3種なのか、食べ物に関しては言葉の憶えが良いようです。


それにしても最近は息子の裡で課題が10個くらいあるようです。

それらを複合的に乗り越えていって成長していっているようです。

立って歩けるようになるまでは常に1個の課題をひとつづつこなしていくという感じでしたので、観察も楽でした。

今は忙しすぎ、また我々夫婦の疲労もあり、精密に観察できなくなりました。

育児と整体を両立させるのは難しいです。

2020年9月6日日曜日

成長

1才3ヵ月位から、子供の成長が複合的になっていったというか、多岐に渡るようになったので、その変化を言語化するのがとても難しくなった。

動作一つとっても物凄い速度で変化している。

笑い方もどんどん変わる。

言葉も少しづつ憶えている。

喋れないが、こちらの言っていることは何となくわかるようだ。

階段の昇り降りなど、できることが増えていく。その過程をずっと毎日観察してきた。


私は毎日子供と過ごしている。

私自身もすごい速度で成長している。この年でこの成長はありえないことだと思う。育児以外のことで40歳過ぎて毎日ここまで成長していくということは無い、と断言できる。


ある意味恐ろしいことだ。

自分の子供と共に成長する、このことはもうやり直せない。

チャンスは一度だけ。

何人か子供を産んで育てたとしても、それぞれ性格が違うから、成長の内容は違うはずだ。

家族は大切にするべきだ。

2020年9月2日水曜日

食べ物で遊ぶ

服部文祥の『獲物山』によると、野生の動物は獲物のおいしい処だけを食い散らかして、後はほっぽってしまうようだ。
野生動物が天然記念物のモリアオガエルのおいしいモモ肉だけを齧り去る、『獲物山』にはその写真が載っている。

動物は生命に感謝などしない。
宗教を持つのは人間だけのようだ。

1才5ヵ月の息子は、よく食べ物で遊ぶ。
これは本能だ。
現在のところ正しい。
腹が満たされると、ご飯を適当に放り投げたりして遊ぶ。

興味があるのはやはり、意識的に躾なくても子供は食べ物で遊ばなくなるのだろうか、ということ。
とはいえ、そんな実験するわけにはいかないわけで、作法を教えますが、しかし、どのタイミングなんだろうか。
ごく自然にそれを認識するタイミングは何歳くらいなんだろうか。