2020年1月20日月曜日

爪先立ち、から片足蹲踞

つかまり立ちができるようになった頃、立ち姿は、爪先立ちだった。
アキレス腱が緊張していたのだと思う。
踵を地に着けられなかった。地に足が着かない状態。
立つことが頭を緊張させていたのか。
頭の緊張がピークに至って立ち上がるのか。
ともかく、腰椎1番に重心があった。

その姿勢から自分だけで座ることが出来るようになった時の座り方が、片足蹲踞の姿勢だった。
すーっと片方の足(右足が多かったと思う)を屈曲させて、その足の膝を地に着いて座っていた。
この動きが明確な、左右の重心移動の始まりだった。
腰椎2番と4番を動かして座る。

立つときは腰椎5番と1番。
座る時は2番と4番。
前後と上下で立ち、左右と開閉で座る。
腰椎3番は常にバランサーとして使われている。腰の反りは腰椎3番。
ずり這い時は腰の反りはなく、闇雲に手足を動かして這う。
ハイハイになる時に腰の反りが生まれる。腰椎3番が引き締まる。
この時は腰椎3番を大きく使う。

2020年1月17日金曜日

お友達に会うと

妻が子を連れて育児の会の様な所に行きます。
そこで、少しお兄さんの子たちと遊びます。
そして帰ってくると、氣が上がっています。動きが違います。
とくに、一晩寝ての次の日に子供は大きく変化しています。

自分でもこういうことが出来るんだ、と発見があるようです。
お友達が滑り台ですべっているのを見て、初めて滑り台ですべったりとか、自分一人だけではそうしよう、とは思わないことを、触発されてするようです。
そして出来ないことが出来るようになる。

たんなる視覚イメージの鏡像的な身体運動の反転とは違う、と感じる。
会から帰ってくると、身体の裡に何かが入っている。
入っているのは視像ではなく、氣。
氣の残像。
場に渦巻いていた氣。
氣は身体に先行する。
これは整体に於ける原理であって、私はこれを疑わない。

氣は時間と空間の裡を動く。その氣に対する感覚は主観の裡にのみ存在する。
身体は氣の後を追う。
氣遅れしたり、氣が欠けたりしていると、身体と氣はズレる。

これから、死に向かうばかりの我々のような大人はおおよその身の丈を知っている。
氣と身体はもう余りズレない。
子供たちはまだ、身の丈を知らない。氣の大きさも身体の大きさもよくわかっていない。

子供がいると場が動きますが、子供の身になってみますと、場が身体の裡に入ってくるようでなかなか大変のようです。
動き、場、氣、身体、が震えて動き廻り、大人の主観を強制的に動かします。
すべてが動いています。一瞬一刻成長します。観察すると驚きです。
自分はもう中年ですが、老年の準備をそろそろしたくなります。
子供と一緒にいると、いい意味で老けます。
自分はもう着実に死に向かっている存在であると、再認識しました。

2020年1月7日火曜日

裏腹

裏腹とは、どういう意味だろうか。

腹の裏の背ということなのか。
身体の裏側に腹がある、ということなのか。

腹の底という言葉があるが、腹には体積がある。
だから底という。
腹の下とはいわない。
底があるなら、何かが溜まる。
漏れることも。
空のこともある。

背中、背、背骨には体積は無い。
骨があるから。
骨は線。
通じるか通じないか。
通るか通らないか。
移動するのは点。

腹が表で背が裏、というのは赤ちゃんは産み落とされて後にまず、窒息しないように上を向いて寝かせられるから。
だからこれが表向き。
腹が表。
背が裏。
人類共通。

四足歩行の獣などは、生まれてすぐに自力で立ち上がる。
だから、腹も背も表も裏もない。
服従すると腹を見せるというが、四足で立っているわけで、腹が急所というより、通常は首が急所。
故に獣に腹も背もなく。
裏も表もない。
犬や猫を偏愛する人間は多い。
表裏が無いからだという。

人間の身体には表裏が明確にある。

整体の操法では俯せになってもらい、背骨を調べる。
裏を表と観る。
背骨の状態から、腹の状態も推測できる。
裏表通じている。
背骨を観て調べ始めて、最後に腹を押さえて終える。

裏腹という言葉は日本人の諸身体間で共有されていた感覚を言葉にしている。
言葉が先でなく、身体が先なのは間違いない。
生れ落ちて、仰向けに寝かされ、身体の裡に表裏が感覚され、その後、言葉が共有される。
言葉の共有の前に身体の共有がある。

裏も腹も無い人が増えている感じがする。
その身体の上に、言葉が上滑りしていく。
知能が高い人は、言葉を正確に暗記して定義して行使している。
言葉が横に横に結合していく。
上下もなくはない。
氣のきいた人は捩じったりもする。
だが、言葉に表裏がなくなってきている。

身体と言葉の繋がりが断たれると共有できるものは法以外になくなる。
法治国家などというと聞こえはいいが、一体何処の誰が条文を書いているか。
義務教育に英語とプログラミング言語が加わるとのことだが
その根拠は経済的な理由以外には無く、より正確には国際金融による要請である。
英語もプログラミング言語も日本人の身体の裡から生まれ出てきたものではない。

凄腕トレーダーを「マーケットの魔術師」と呼ぶことがあるが、あれはまさに言葉本来の意味の魔術で、何もないところに数字を刻印して、そこから金を引き出す術、そして金で人心を支配する法術が戦後この方機能し続けている。

野口晴哉が株で腹黒い人間に騙されて多額の借金を負ったのは戦後東京証券取引所が再開して直後のことと推察する。
『朴歯の下駄』によると、昭和24年か25年に財産を失った、ということのようだ。
東証は1949年の4月に再開。
同年5月16日に売買再開となっている。
ここから戦前戦中とは金の流れが大きく変質する。
人の身体と心もそれに応じて。

2020年1月6日月曜日

味覚が決まる時期

普段は赤ちゃんの補食は自分たちで作っているのですが、一度レトルトのものを食べさせたことがあった。
レトルトの離乳食はどれもこれも砂糖を使っているので、あまり食べさせたくはなかったのですが、忙しかったのと、一度どんなものか試したかったので使ってみた。
自分たちでも食べてみたけども、これがコンビニ弁当と同じ味がする。

その食事後の息子の大便が凄く甘い匂いがした。
何時もはこんな匂いはしない。
やっぱりそうなんだなあ、と思い、以後レトルトのものは食べさせていない。

最近はコンビニ弁当が「おふくろの味」という感覚の若い人が増えているそうですが、これは元々の最初のところで味覚が決定しているのではないか、と思った。

離乳食をあまり自炊してないのではないか。
そして、自炊しているとしても味付けをレトルトの味付けに近づけているのではないか。

とはいえ、育児中のお母様の忙しさは尋常一様のものではないので、レトルトを使用していても仕方ないかと思います。
自分で育児をしていなかったら、理念に忠実にレトルトや冷凍食品を否定していたと思いますが、そんなこと言ってられないくらいに本当に忙しいのです。

「寺門ジモンの取材拒否の店」というテレビ番組があり、以前は好きで観ていて、この正月にもやっていたので観たのですが、この食べ歩きというのは、これは23区に住む独身者のものだなと思いました。
いくらお金があっても、本氣で育児をしていたら、食べに行く時間がない。

2020年1月5日日曜日

四つん這いから、つかまり立ち

四つん這いから、つかまり立ちまでの動きを整理していく。

最初は全体が連動していません。細部がバラバラに動いていた。
初期の運動は快不快の二種によってのみ方向づけられる。
そこに視覚による全体の統合が生じる。
目が効いてくると身体に上下左右が生じる。

表裏は目ではなく、身体と掌の回転の方が重要だったと思う。
つまり映像を脳内で反転しているのではなく、身体やモノを反転させるという具体的な運動が意味をもっている。
また、表裏は対称ではなく、表でありながら下、であったり、裏でありながら前でありまた善であったりする。
そして、表は常に顔、胸、腹、掌。
裏は常に背中と手の甲である(日本語の「裏」に後頭部や尻は含まれない)。

実際のところ、上下左右前後捩じれ開閉ではなく、表裏による認識が(少なくとも、日本人による)感覚、思考、感情、直観の出発点となる。
余談だが、英語の早期教育は日本人の表裏の感覚に確実に不協和を生じさせると思う。
その結果として、数値上の身体能力と経済力は向上すると思うが、背骨と腹と言葉が別のものに変質する。

よく言われるように、(実物としての)鏡を通しての主体の統合というのものは私が見た限りでは生じなかった。
最初は鏡を怖がっていたが、いつしか慣れた。
最近、鏡に映った自分の唇にキスをしていたが、舐めてみたかっただけでないかと思う。
舐めようとして近づいたら、鏡の向こうも同じようにそうしてきて、キスをしていたのだと思う。
いずれにしても視覚による主体の統合というのは機械的な動きで、そこには氣も心も無い。
ここから脇道に入って主体の構造を探ろうとしても徒労に終わる。
言語の構造と脳の構造が連続していることが確認できるだけだ。

氣にも心にも構造なるものなど無い。
あるのは、無であり虚。
無も虚も構造を支えてなどいない。
支えているのは、寂であり漠。

腰椎3番を捻る運動で、上体と下体が連動してくると、ずり這いをするようになる。
そこから四つん這いの状態からぐっと膝を伸ばして、足の裏を床に着ける動作をするようになる。
この動きで腰椎5番を大いに使うようになる。

手が伸びてくる時期があり、腰椎1番が緊張しだす。そして頸に張りが出てくる。
丁度、腕立て伏せで身体を持ち上げるような感じで頭を上げる。
この時、視界が縦に開けるので、目の動きが速く立体的になる。
目の動きと頸の動きが連動する。
頸の張りと、その人の希望は関連があるが、目と、頸と、希望と、運動が一つながりになっている。
目も手も脳も頸も皮膚も腰椎1番と教わっていたが、なるほど、と思った。
希望は身体の裡から湧いて出てくるようだ。
身体運動と身体感覚を外側から操作すれば、人を絶望に導くことも出来る。
日本の自殺率の高さのすべてを経済的な理由に還元することはできない。

二足歩行に至る前に、つかまり立ちという状態がある。
炬燵があり、その上に上体をのせようとする。
これが、上る時は主に腰椎5番を使うが、下りるときには当然だが、炬燵の端を手でぐーっと掴んでいるので、腰椎1番を使う。
手で炬燵を掴みながら、ゆっくり身体を下ろしていくので腰椎1番を緊張させながら座る。
最初はこれができない。ばたーんと後ろに倒れてしまう。
だけど徐々に手を使えるようになる。
ここで私は、心の裡に頭部への警戒心が芽生える過程と、手と目の新たな用法による天地の感覚の発生と、それらと足を連携する腰の同時発生を観た。

立つのは勢いだけ。座るには頭を使う。座るという行為には最初は必ず大人が介在する。しなければ大怪我をする。
大人になると、立つのも座るのも、一人で出来る、と思うが、実際には大人になっても何処かに座るという行為は一人では出来ない。
その時には、目には映らない他者が常に背中にいて、見守っている。
何故背中かというと、手と目は前には廻るが、後ろには廻り憎いから。
要するに、先祖は背中に居る。前には居ない。前には未来があり、子供が居る。

だから、裏に表があるという感覚が最初期から常に、人間を支えている。
支えているということは支え合っている、ということだ。
恐らく、猿にも熊にもこの感覚は無い。
そして、この感覚が共有できなくなった時に、人間は獣になる。

上がると下りるは全く別の経験で、そのことによって、腰椎1番と5番の転換とそして腰椎3番と4番の引き締まりが生じる。
獲得したのは天地。
意外にも、二足歩行の以前にこの感覚が生じた。
横、という感覚はまだ薄い感じがする。
この時点での腰椎2番はあってないようなもの。

この後、家の子供はピアノを弾いて踊りだしたのだけども、それはまた今度書くことにする。

2020年1月3日金曜日

米と栄養状態

野口先生の本では6か月で食べさせている。
私どもは9か月を機に食べさせることにしたが、飯粒をそのまま食べさせている。おかゆは逆に食べにくいようだ。

3か月遅らせたのは、補食を始めたのが本来の整体式と比べて3か月遅れたからです。
後ろにずらしたわけです。

世間では、まず最初におかゆから食べさせるが、整体ではお米は一番最後です。
最初に食べるのは動物質で内臓から。
整体ではお米はあまり身体によくないとされていて、食べ過ぎると胸椎8番が固くなります。
おいしいんですけどね。

そして9か月目につかまり立ちをするようになりました。
13か月で歩けるようになると理想なので、少し早いかなと思います。

しかし、世間では、早く歩いて、早く喋るようになるのが理想のようで、9か月でスタスタ歩いている子が育児支援センターにいたと、妻が言っていました。

整体では栄養が足りないと、自分から食物を探して得るために、早く歩いて、早く歯が生えるということになっています。