妻が子を連れて育児の会の様な所に行きます。
そこで、少しお兄さんの子たちと遊びます。
そして帰ってくると、氣が上がっています。動きが違います。
とくに、一晩寝ての次の日に子供は大きく変化しています。
自分でもこういうことが出来るんだ、と発見があるようです。
お友達が滑り台ですべっているのを見て、初めて滑り台ですべったりとか、自分一人だけではそうしよう、とは思わないことを、触発されてするようです。
そして出来ないことが出来るようになる。
たんなる視覚イメージの鏡像的な身体運動の反転とは違う、と感じる。
会から帰ってくると、身体の裡に何かが入っている。
入っているのは視像ではなく、氣。
氣の残像。
場に渦巻いていた氣。
氣は身体に先行する。
これは整体に於ける原理であって、私はこれを疑わない。
氣は時間と空間の裡を動く。その氣に対する感覚は主観の裡にのみ存在する。
身体は氣の後を追う。
氣遅れしたり、氣が欠けたりしていると、身体と氣はズレる。
これから、死に向かうばかりの我々のような大人はおおよその身の丈を知っている。
氣と身体はもう余りズレない。
子供たちはまだ、身の丈を知らない。氣の大きさも身体の大きさもよくわかっていない。
子供がいると場が動きますが、子供の身になってみますと、場が身体の裡に入ってくるようでなかなか大変のようです。
動き、場、氣、身体、が震えて動き廻り、大人の主観を強制的に動かします。
すべてが動いています。一瞬一刻成長します。観察すると驚きです。
自分はもう中年ですが、老年の準備をそろそろしたくなります。
子供と一緒にいると、いい意味で老けます。
自分はもう着実に死に向かっている存在であると、再認識しました。