2019年9月9日月曜日

股関節

息子の両足を、胸に向けてぐーっと折りたたんで近づけると、左が弛い。
これは産まれた時から。
立ち歩きを始めますと、この弛い方の股関節が、逆に固くなる、と言われています。

岡島瑞徳先生の平成17年6月12日の中等講座の第3講に於いて、男と女の股関節の問題が語られています。
ここで岡島先生が発見された、男女の股関節の相違に関する仮説を野口先生の高弟であった吉田順平先生に電話で聞くと、整体では昔からそういうふうにいわれている、とおっしゃったというくだりは、ちょっと面白いです。
楽屋落ちみたいな面白さなのですが、一生懸命整体を研究して、新発見した、と思っても、元々そう伝わっているよ、と言われてしまう世界なわけです。
しかし、自分の力で発見するのと、最初から懇切丁寧に教わる、というのはかなり違うことなわけなのですが。

それはともかく、産まれた時からの股関節異常は、栄養状態がよくないからだ、と野口先生の『育児の本』には書かれています。
これを治すには13ヶ月までの栄養がすべてであり、この期間に栄養を満たさないと、その後にどんなに栄養を与えても、もう満ちることはないとのことです。

2019年8月15日木曜日

大人並みに話しかける

むしろ、腹の中にいた時はそれなりだったけれども、赤ちゃんに対し、大人並みに話しかける、ということは出来てない。

野口先生は赤ちゃんに対しても、大人並みに話しかけてから、行動していたという。

目の前に、小さい、言葉が正確にわからない人がいて、手がかかるという状況だと、いちいち大人にするように、言葉で説明してから、行動に移すということは、非常に難しい。

やってみればわかる。寝不足で、疲労が積み重なっていれば、それはかんたんなことではない。

子供が産まれてからわかったことだけど、本来、子供とは夫婦二人だけで育てるようには出来ていない。
もう少し大きい単位の家族で育てるものだと思う。
理屈はいらない。
そう出来ていることは、自分で育ててみれば実感できる。

伝統的な家族形態を破壊し、忙殺される核家族のその間隙に、隙を突いて、さまざまなものやことやが入り込んでくる。
それは強制ではないが、他に選択の余地は無い、というあり方で、強制される。

一番必要なのは時間だが、時間を金で買う、という発想に至ると、すべてそこで手詰まりとなる。
そもそも、国際金融資本によって、時間と言葉の意味が一元的に管理されているので、さらに逃げ場が無くなる。

こういうことをぶつくさ子供に、独り言のように話していると、妻に怒られるわけだが、私がしたいのは、息子を大人並みに扱うということだから……。

2019年8月14日水曜日

263日か273日かの問題

2018年10月3日の本ブログの記事に於いて、受胎から出産までの日数の問題を書きました。

その受胎から出産までの野口整体に於ける、正規の日数ですが、過去の資料を調べていて確認がとれました。

昭和46年1月14日の「受胎、妊娠の問題」という整体操法講座の講義録を拝読いたしましたら、38頁に「やはりちゃんと二百七十三日いないと駄目なんです」とあります。

これは野口晴哉先生の言葉ですので、すくなくとも昭和46年までは胎児は最低273日間お腹の中にいることが正規の日数であり、これより早く産まれた場合は早産であると、当時の整体協会に於いては規定されていた、といってよいでしょう。
それが岡島瑞徳先生が、整体協会で教わっていた時期には263日になんらかの理由で改められたようです。

どちらの日数が正しいのか、誰が日数を変えたのかは、正直言ってもうどうでもよくなりました。
何故なら、私の息子は263日に達する前に生まれたからです。
ただ、私の気質として、正しい日数がわからないと気持ち悪かったので、個人的に納得できてよかったです。
この問題はこれで終了いたします。

2019年8月13日火曜日

赤ちゃんを抱いて歩くと

息子を抱いて歩くと、股関節が引っかからない。
私は捻れ体癖なので、股関節が狂っている。
捻れ体癖の人は皆、股関節が狂っている。

息子を抱きながら歩くと、足がすいすい前に出る。
足が中心に向かう。
何故だろうか。

私の身体が自動的に息子に同調するため、かんたんに鳩尾が弛み、大切なものを落とさないように腹の前で抱えるので、自然に腹部第3(丹田)に力が満ちる。

捻れ体癖だから、腰椎3番の捻れは取れないものの、余分な力みが抜け、左股関節が弛むようだ。

何も稽古していないのに、歩法が変わる。

始めはそれを喜んでいて家の中を調子に乗ってうろうろ歩いていました。そうしたら、またじょじょにおかしな歩き方になってきた。

そこで、師匠の操法を受けたら、左手首の狂いからくる、左骨盤の後屈ということで、足を払われた。

抱っこするときに、赤ちゃんは、こちらの抱きやすいように抱かせてくれない。
抱いて欲しいように抱くから、こちらの手はおかしな形になる。
気付かないうちに無理がきて、左の手首が狂っていた。

少なくとも私の息子はものすごく厳密に角度がある。
外から人が来て抱っこされると、困った顔で私に助けを求めてきたりする。

息子が崩れると、私も崩れる。
私が崩れると、息子も崩れる。
間に、操法が介在する。

2019年8月6日火曜日

初めて触れたのは

我が子が産まれて初めて触れた人間が私である。
生涯に渡り我々の生に浸透していく感覚がそこにある。

妻は息子を立ったまま産んだ。
私は、頭を出した息子に、手を差し出した。
床に落下しないよう細心の注意で息子の頭を支えた。
妻が産み落とした、息子を、私が受け止めた。
急なことで、手を洗っている暇など無かった。

その時の息子の頭の感触はいまでもはっきりしている。
その光景も感覚の裡にある。

息子が初めて触れられた相手の手が、ゴムの手袋をしていたのでは可哀想だと思う。
自分の出生時がそうだったからそう思うのか。
私自身は早産で、産まれてすぐに母親から隔離された。
そんなことは記憶にないが記憶にある。

母体が仰向けで出産するのは本来ノーマルではないのだろう。
産み落とす、取り上げる、というのが本来なんだろう。
あの時、息子を落とさないで、取りこぼさないで、取り上げられたのは生涯の自慢である。

産まれてからも、息子は、私が抱くと、私を前面的に信頼して、身を預けてくれる。
まったく不安や恐怖を感じていなかった。

息子は、自分を母体から地上に取り次いだ人間が誰だか明確に知っている。
最初に、安心を、私が知らせた。
この事実は我々の残りの人生に多大な影響を与えるだろう。

2019年8月4日日曜日

布おむつ

最初は完全に布おむつだった。
意気込んでいたので。
夜にも2、3時間ごとに起きて、おむつを替えていた。
紙おむつと違い、布おむつは、赤ちゃんのお尻を拭いた後にも、うんこを洗い落とさないといけない。眠い目をこすりながら。
これは本当にきつかった。
また、起きる度ごとにミルクを飲ませる。

あまりにもたいへんなので、2ヶ月位から、紙おむつを併用にした。
うんこしそうな時は紙おむつ、うんこ直後からしばらくは布おむつ。

凄く楽になり、今までは何だったのか、と夫婦で笑った。

梅雨になり、布おむつは乾かないので、完全紙おむつに移行。
超かんたん。

赤ちゃんが触れる最初の感覚は、科学的につくられた合成繊維ではなく、綿がよいと思っていた。
いまでもそう思いますが、それよりも、エネルギーを割くべき、もっと大事なことがある、とも思います。
頑張りすぎはよくない。

エネルギーは有限なので、配分を間違えないようにしないと、肝心なところでミスが生じます。

とはいえ、最初期に触れた衣服が、合成繊維でなくてよかったと思います。
その感覚は潜在意識に入ると思う。

2019年7月6日土曜日

光を追う

2ヶ月過ぎたくらいのことだろうか。
子供が、扉の先の光などを眼で光を追うようになった。
その方を見る。

人間の眼は闇を追うことなく、光を追うように本能づけられている。
始めからそう方向づけられている。

音の中から闇が生まれ、闇の中に光が生じる。
本能の順序。
そして、始めの音の裡には声と言葉が含まれる。
音が先か、声か、言葉が先か?

梟などは、闇を見る。
光には眼を閉ざしている。
梟にはハンターの性質として、始めから音も声も言葉も無い。
彼らは、影から産まれ、影の裡で死ぬ。

人間と梟は対立していると思う。
象徴の裡で。
本当の知性を授けるのは、梟か蛇か?
その知性は象徴的な知性なのだろうか、現実的な知性なのだろうか?

いずれにしても、人間の運命として、闇の中で光を眼で追っている。この時、身体は思うように動かない。
いまだ親の腕の中に居て、そこが常に居るべき処となる。親の責任は重大ということだ。

そして数ヵ月後、光へと歩きだし、象徴の世界に足を踏み入れる。

2019年6月30日日曜日

孝行息子

出産一時金というものがある。
子供を産むと、国から42万円貰える。
東京の病院で入院して出産すると大体60万円位が相場となるのですが、その差額を個人が病院に支払うというようなシステムになっています。

画像は今回の助産院での出産における領収書です。
金額が37万円となっています。
この場合、差額を国から貰えるわけです。
役所に申請したら5万円妻の口座に入金されました。

この領収書のポイントは「分娩管理費」で、ここになにも書いてないですが、これは、助産師さんが家に来る前に、私が子供を取り上げたので、記載が無くお金がかかってないということ。
普通は助産師さんに来てもらって、家で待機している間、時給換算で費用がかかるわけです。
ここが0円なので、その分、儲かったね~、という話です。
流石は貧乏人の息子。出産時から、空気を読んで出てくるね。
家族で助け合って生きていきます。

産まれる前も愉氣のみ。
分娩は自前。
産まれた後も愉氣のみ。

金が無いから結婚できない、子供がつくれない、というのは嘘です。思い込みです。

2019年6月29日土曜日

生まれた時と死ぬ時

生まれた時と死ぬ時、その時だけ整体である、身体が整っている、と言われる。

子供を観ていると確かにその通りで、どんどんと少しづつ身体が歪んでいく。
はじめはまっさらだった。

何かをしようとする時に、ある体勢をとる。
たとえば、寝る時には、頚を弛めようとする。そういう格好をする。その時身体は歪む。歪まないと眠れない。

ミルクを飲むのも同じ。
飲みすぎで内臓を使っている時にも、腰椎2番が捩れて歪んでいる。

「ずり這い」というのをさせる。
ハイハイの練習として、出来なくても、うつ伏せにさせる。もぞもぞ動いているが、観ていると腰椎1番や足首が緊張している。

生きているだけで、明らかに身体が歪んでいく。
立位になったら尚更だ。
緊張してもリラックスしても、寝ても覚めても身体は歪んでいる。
身体の左右の均整をとれば、整体、などという一般の考えは馬鹿げている。

そして、体癖というのは身体の習慣化された使い方、以前であり、それ以上のものなのだろう。

2019年6月2日日曜日

ドラッグ

私は基本的にドラッグが嫌いだ。
闇市場に流れているドラッグは明確な意図をもってある種の人々によってプロモートされている。

いわゆるヒップスターはソフトドラッグに寛容な思想を持っていて、SNSその他で、何事かを喚いているが、そういった思想も当然ある種の人々によってプロモートされコントロールされている。
ドラッグを否定すると、気の小さいスクエアな感性と思考の持ち主だと分類される。若者はその種の人間としてカテゴライズされることに反発するだろう。
そう仕向けられている。
今日では、ドラッグと結びついた、思想、サウンド、ファッション、ヴィジュアル、すべてが誰かに都合のいいように最適値に調整されている。

現在の日本に存在するすべてのドラッグは、日本人の身体と精神を破壊する目的のために流通している。
ドラッグは、日本人の金を巻き上げ、さらに家庭を破壊する、という兵器としての意図を明確に持っている。
構図はアヘン戦争の時代となんら変わりはない。

ドラッグを使用すると、音感や色彩感が良くなる、などというが、ドラッグを使用して創作した音楽や映像を鑑賞すると、任意のドラッグは任意の感覚にのみ回路を開くが、それ以外の感覚は遮断する。
どの民族どの人種、年齢性別のいかんに関わらず、ドラッグを使用すれば、身体的精神的背景は剥奪されグローバルな感覚に方向づけられる。
ドラッグを使用して創作すると、その作品はローカルなものには絶対になりえない。
こういった特異な状態の感覚がテクノロジーと結合して、人間を獣の状態に貶めている。

「四十八茶百鼠」とかいうが、日本の古人は様々な歴史的背景の中で、精妙で繊細な色彩感覚を持っていた。音感も同様に。
この種の各民族の歴史的背景に由来する身体的感覚の多様性は、ドラッグと、ドラッグに寛容であるべきとするリベラル思想を諸国民の間に流し込みさえすれば、簡単に破壊できる。

ポップカルチャーと結合している音楽を聴くと、各人種民族の感覚をある一つの方向に向けて整流しようという意図を感じる。
ひらたくいうと、創作者が黒人であれ白人であれ日本人であれ、すべて同じ音楽に聴こえる。
現在の私の耳には。
ドラッグとテクノロジーの強度の結合の影響が、この均質化の原因の中心になっている。

と、ここまで書いてきてなんなんですが、私自身はドラッグを使用して作成した芸術作品にはとても親しみがあり、好きなものが多くある。
というより、自分の好きな芸術作品でドラッグが関与していないものの方が少ない。ほぼない、ともいえる。
若い頃から知らず知らずそういった作品を摂取してきて、美的な価値観を操作されてきた、ということですが……。

私の世代はもう駄目ですが、子供には浮世絵に描かれている多彩な色彩を見せて育てたいのです。本当は。
でも、街に出れば、LSDや大麻やコンピューターグラフィックスによって培われた色彩に、眼を攻撃されます。

私がノイズにこだわりがあるのは、もうどっちみち元には戻れないから、押しつぶして、再生するしかないと感じているからです。