2019年10月29日火曜日

子供が紙で遊ぶ。
折ったり、潰したり、舐めたり、噛んだり。

観ていると、生まれてから始めて加工する材料が紙のようだ。
布は、赤ちゃんには加工できない。
赤ちゃんは、紙にはすごく執着する。掴んで離さない。
形が変形する様を楽しんでいる。
舐めると変色するが、色目の違いはまだ識別できないようだ。

紙が高価だった時代は何を変形させていたか。
きっと植物と虫だろう。

秋なので、せめて枯葉で遊ばせたいが、こういうことは妻が嫌がる。

妻の観察によると、赤ちゃんは遊びの中で学ぶ、とのこと。
大人は理由をつけて学ぶが、赤ちゃんの学びには理由がなく
、遊びたいから遊んでいて、後付で何かを学んでいる。

不可逆に変形していって、そして同時にリセットできる新素材があったら、赤ちゃんはそこから何を学ぶのか。
高価でも、おもちゃとして試してみる価値はあると思う。

2019年10月11日金曜日

足と手、リズム、からの要求

5ヶ月目。
うつ伏せの状態で、右足で、床を、バンバンと叩く。
焦点が腰椎5番に合っているようだった。
そのバンバンがリズムを持ち始めたのは、松田聖子の曲をかけていた時だった。
『制服』という曲に合わせてバンバン右足で床を叩いていた。
それがいつしか両足になり、ついには両手で床をバンバンと叩くようになった。

始めはただのリズムであったが、その手でのバンバンが、今度は要求を表すようになり、「我ここにあり」という風な色彩を帯びるようになる。

太鼓の祖形なのか、手足を動かしたい欲求と、連打によるリズム、というか波の発生の感覚への集注。
大きな音を出すことによる、エネルギーの鬱散。注意の要求。
これらは我々への働きかけであるので、音の裡と父母との間に意味が発生し、また同時に発生したばかりの意味が、音から分離し始めているようだ。
これは言葉の発生であると共に、いまだ現前しない何かを召還する行為でもある。息子は何かを起こそうとしている。
呼んでいるが、対象は現前していない。
呼び起こそうとしている身体が横たわっている。
呼ぼうとしているのは、立姿すべき身体か。

このあたりからあまり泣かなくなった。
泣く、という感情の発露から、動作、音、意味、波、非在、への集注へと身体が変化したと、私はみている。
これが、言葉の獲得への第一歩であるのは間違いない。

足とは立つための器官である前に、音を出す器官と認識するべきだ。
腰椎5番は、型を形成する。
どうやら、口や喉ではなく、足から、音と言葉が産まれるようだ(ただし、それらの音と行為を分節するのは眼と耳であり、分節したのは、息子のではなく、私の眼と耳だ)。
言葉を発生させたのは、脳ではなく、端的に腰椎5番だ。

人間一般はどうか知らないが、私の息子はこの順序で言葉を獲得した。

これは仮説だが、おそらく、人によって言葉の獲得過程は異なるのだろう。
眼から始まったり、手から、髪から、排泄器官からとか、様々なのではないかと思う。
それが、人間それぞれの後々の知能や言語の行使能力に反映されるのだろう。
この5ヶ月の息子の経過を観ていて、言葉の質が、人によってまったく異なる理由を観た氣がした。

この頃、息子は、私ども夫婦が抱っこしながら喋ると、そっと私どもの口に手を当てた。声が口から現れることが不思議なようだった。
また、自分の足を手で持って、それが自分の足であることを、確認して認識していた。

2019年10月9日水曜日

バルトーク

スマートスピーカーに、なんとなく「バルトークの曲かけて」と言った。
かかった曲が気持ち悪くて聴けなかった。
昔はバルトークが好きだった。
私は現代音楽一般、不協和音が好きだった。
子供には「ミクロコスモス」を聴かせるつもりでいた。
ここ最近、不協和音が余り聴けなくなった。気持ちが悪い。
自分で自分に驚いた。

野口晴哉先生が調和の感覚を教えるためにお腹のなかの胎児に音楽を聴かせるという話があるが(きっとバッハとかであったのだろうと思うが)、それを昔の私は保守的だと思っていた。
調和の感覚、なんて嘘くさいと思っていた。
野口先生は19世紀の人だ、と思っていた。
自分は21世紀に生きている、と。

かつてのより、現代の不調和を調和とみなす感覚の方が進歩していると思っていた。
だかしかし、今ではやはり調和という感覚は太古より不動で普遍に偏在している、と認識を改めた。
それは、古びることなく、いつまでも、ながらく、ずっと存在し続けている。

たんに、調和、が正解で、不調和、は間違い。
音響に於ける狭義のハーモニーの話ではない。

野口先生は、時代の制約ではなくて、最初から身体感覚で本当の調和を実際に知っていた、ということなのだと思う。

四十を過ぎてやっと、自分が自分以外の存在と共鳴して別の存在に変容する、という感覚に合焦することができた、と感じる。
目でなく、耳と、皮膚と、皮膚としての目、が変わったのでしょう。
赤ちゃんには強烈なるカリスマ性があります。
赤ちゃんが基音になり、そのうえにすべてが積みあがっていきます。