2017年2月21日火曜日

氣の形

流れで合掌行氣の訓練、というか実験。
私の他、おばさまがお二人。整体に関しては素人のかたがた。

正座で合掌行氣をしている人の胸椎12番の2側を後ろから押さえ、師匠が氣を通す。
「掌が大きくなるでしょ?」と、また「こうすると口が大きくなる」とも。
お二人は手のひらが大きくなるのはわかったけど、口はわからないと。

私の順番が来て、氣を通してもらうと、「おかしいなあ、つながらない」「うーん」などとおっしゃる。
何度も手の角度を変える。私も一生懸命合掌、手のひらに氣を集めるが、大きくならない。
「口はすこしわかるでしょ?」と、たしかに中の奥が少し大きくなる。
少しがっかりしたが、一連が終了し、礼をした後、また首をかしげながら私の元にやってきて、もう一度試す。
「ああ、上に伸びるんだあ」と、そう言われる前に、合掌してる手のひらの上にぼうぼうとロウソクの炎のように氣がたちのぼるのを私も感じていた。
私はこの感覚が氣なんだと、はじめてはっきり認識した。

師匠に聞くと、統御が必要で、この合掌行氣においては自分自身を包み込むような自分が自身の手のひらの中に納まるような氣がよいとのこと。

それにしても何故胸椎12番なのだろう?
この骨に関しては野口先生も多くを語っていない。師匠は「研究中」とおっしゃっていたが、私にとってもこの骨は今後の課題であろう。
現在は古い資料を掘り起こしている最中なので、なにか発見があったらここに書いていきたいと思う。

2017年2月10日金曜日

仕事か遊びか

ある幼稚園で「お遊戯」(昔はこう言った)を「仕事」と称してるということを知りました。
子供が幼稚園に行って「仕事」をすると。

何処の国の教育法を取り入れたのか知らないが、ものすごく違和感を感じる。
何もない空間と時間だから、想像力を働かせて何事かを創造すると思うのだが。

大人が幼児の創造性を信用できなくなるくらいに幼児的になっているとしか思えない。

今の子供に必要なのは安全な空間と無為の時間、この二つのみ。
それ以外の大人の都合を押し付けるのは間違っている。

利益とつながらない子供の想像力がそんなにそんなに恐ろしいのだろうか。

2017年2月9日木曜日

愉氣

愉氣とはなんだろうか?

そこでは天心でなくてはならないという。
集注であり同調であるという。

愉氣とは究極には天心であろうが、一番手前にあるのは共感であると思う。
必死に一心に愉氣していて、相手の感覚が感じられたとき、はじめて相手の息が深くなる。
何故か伝わる。
他者が自分の何かを感じたとき、自分も相手の何かをふと感じる。

施術者の「治れ」という念が、邪念であるのは、愉氣される側が他人に「治れ」と思ってもらいたくないからだろう。

それは自力を促すような他力ではないからだ。
一番最初にあるのが、共感で、そして注意の集注であろう。

そして共感の前には観察がある。
観察なくして共感はありえない。

何処をどう観るか。
すべては、まず自分を観ることからはじまるだろう。

しかし、本当には自分は何を観て何を感じてるだろう?
自分自身に対して。

2017年2月2日木曜日

なるほどねー

以前師匠に着手されたときのこと。するなり。
「なるほどねー」と。
なにが「なるほどねー」なのかの説明はない。
何時もこういう調子。

師匠は着手しただけで、ひとつづつ背骨に触らなくても、各椎骨の状態が認識できる。
自分で自分の知らない状態を観られることはやはり恐ろしい。

私の頚椎3番からの1側が胸椎7番の右2側に繋がっていた。
胸椎7番の左は癌や血液異常、右はあまり出ない処で少し不思議がっていた。
7番は対象のない漠たる不安や恐怖の骨でもあり、それが上からの1側につながるということは、「不安に苛まれている?」と聞くと、「そう、不安に苛まれている」と言ってこらえきれないという感じで普段冷静な師匠が、くすくす笑った。

身に憶えはある。
こういったこと、背骨の状態から観る自分自身の無意識が意識的に認識できたとしても、するべきことは腹を決めること以外になにもない。

結局のところ自分自身の眼前にある現実を変えなければ、背骨も変わらない。