2022年11月20日日曜日

第五回初等講座

岡島瑞徳先生の初等講座の講義録を参照させていただきながら、稽古会を行います。私が所有しているもので最も古い講義録である平成12年のものから始めます。この講座は全18回。1年半にわたり整体に於ける基礎的な考え方、処や型などについて講義なさっております。

第五回の講義の主題は「上胸部二側の操法」になります。

私自身が岡島先生の整体に対する理解を深めるために初心で稽古したい、と考えています。
募集は若干名ですが、どなたでも参加できます。

場所は東京都八王子市千人町3丁目19番12号グレース八王子102号室。
最寄り駅は西八王子駅になります。
日時は11月22日17時30分から約3時間。
参加費3000円。
裸足不可。俯せ時に顔の下に敷くためのタオルなどをお持ち下さい。

下記の電話番号かメールアドレスからお申し込みください。
よろしくお願いいたします。

08035516770
youtsui3@gmail.com

2022年10月17日月曜日

第四回初等講座

岡島瑞徳先生の初等講座の講義録を参照させていただきながら、稽古会を行います。私が所有しているもので最も古い講義録である平成12年のものから始めます。この講座は全18回。1年半にわたり整体に於ける基礎的な考え方、処や型などについて講義なさっております。

第四回の講義の主題は「脊椎操法」になります。

私自身が岡島先生の整体に対する理解を深めるために初心で稽古したい、と考えています。
募集は若干名ですが、どなたでも参加できます。

場所は東京都八王子市千人町3丁目19番12号グレース八王子102号室。
最寄り駅は西八王子駅になります。
日時は10月18日17時30分から約3時間。
参加費3000円。
裸足不可。俯せ時に顔の下に敷くためのタオルなどをお持ち下さい。

下記の電話番号かメールアドレスからお申し込みください。
よろしくお願いいたします。

08035516770
youtsui3@gmail.com

2022年9月11日日曜日

第三回初等講座

岡島瑞徳先生の初等講座の講義録を参照させていただきながら、稽古会を行います。私が所有しているもので最も古い講義録である平成12年のものから始めます。この講座は全18回。1年半にわたり整体に於ける基礎的な考え方、処や型などについて講義なさっております。

第三回の講義の主題は「頸椎操法」になります。

私自身が岡島先生の整体に対する理解を深めるために初心で稽古したい、と考えています。
募集は若干名ですが、どなたでも参加できます。

場所は東京都八王子市千人町3丁目19番12号グレース八王子102号室。
最寄り駅は西八王子駅になります。
日時は9月13日17時30分から約3時間。
参加費3000円。
裸足不可。俯せ時に顔の下に敷くためのタオルなどをお持ち下さい。

下記の電話番号かメールアドレスからお申し込みください。
よろしくお願いいたします。

08035516770
youtsui3@gmail.com

2022年8月16日火曜日

第二回初等講座

岡島瑞徳先生の初等講座の講義録を参照させていただきながら、稽古会を行います。私が所有しているもので最も古い講義録である平成12年のものから始めます。この講座は全18回。1年半にわたり整体に於ける基礎的な考え方、処や型などについて講義なさっております。

第二回の講義の主題は「頭部の処と型」になります。

私自身が岡島先生の整体に対する理解を深めるために初心で稽古したい、と考えています。
募集は若干名ですが、どなたでも参加できます。

場所は東京都八王子市千人町3丁目19番12号グレース八王子102号室。
最寄り駅は西八王子駅になります。
日時は8月18日17時30分から約3時間。
参加費3000円。
裸足不可。俯せ時に顔の下に敷くためのタオルなどをお持ち下さい。

下記の電話番号かメールアドレスからお申し込みください。
よろしくお願いいたします。

08035516770
youtsui3@gmail.com

2022年7月23日土曜日

第一回初等講座

岡島瑞徳先生の初等講座の講義録を参照させていただきながら、稽古会を行います。
私が所有しているもので最も古い講義録である平成12年のものから始めます。
この講座は全18回。1年半にわたり整体に於ける基礎的な考え方、処や型などについて講義なさっております。

第一回の講義の主題は「腹部操法」になります。

私自身が岡島先生の整体に対する理解を深めるために初心で稽古したい、と考えています。
募集は若干名ですが、どなたでも参加できます。

場所は東京都八王子市千人町3丁目19番12号グレース八王子102号室。
最寄り駅は西八王子駅になります。
日時は7月26日17時30分から約3時間。
参加費3000円。
裸足不可。俯せ時に顔の下に敷くためのタオルなどをお持ち下さい。

下記の電話番号かメールアドレスからお申し込みください。
よろしくお願いいたします。

08035516770
youtsui3@gmail.com

2022年7月6日水曜日

何処かにいて何かをしてる人

何もない、ということはない。
何もないわけない。
常に何かがある。

昔のことだけど、私はそこそこ大きな駅で夕刻以後の時間何度も駅前を往復して、会社帰りの人々の顔と動作を観察していたことがある。
一日に数百人くらいか。

仕事が終わっての家路。
帰途での表情。
疲れ切っていて、明日も仕事だ、早く家に帰りたい、という表情を皆さましておられた。
全員同じ表情で個体の区別はつかない。
こんな疲れる無駄な時間は早く終わらせたいと、呆然と足早に歩く。
帰途のこの時間は皆さま無意味であると無意識に認識していた。
数か月間私は駅前を何度も何度も往復して、何百人もの顔と動作を観察していた。

人の流れと反対に歩く。

彼らにとっては何もない時間なのだけど、その時間を裏側から観ると、意味が発生するわけです。
観察している私の側に顔と時間の認識に対する固有の意味が発生します。

疲れ切った方々は自分たちがインスパイアブルな存在で、自分の顔と動作が意味を産出していることに氣付いていないわけです。
自分たちの顔と動作の時間を裏側から観察されているなど、彼らは夢にも思ってないようでした。
時間の線というのは実は幾つもあって、そして顔や動作の観方も幾つもあります。
何もしてない、と思っている時でも、確実に何かをしています。
対象に働きかけています。

人口に対して一定の比率でおかしくなる人がいますが、おかしくなることにも才能がいります。
普通の人間はおかしくなることは出来ない。
鬱病は誰でもなれる。
鬱病になるのに才能はいらない。
誰でもなれるものは病氣とは言わない。
人間は誰でもどんな病氣にもなれるわけではない。
鬱病は病氣ではない。
アメリカ人が病氣だと指定したとして、日本人が従う道理はない。

1997年のことだけど、今年は車にもバスにも電車にも乗らないと決めたことがある。
21歳くらいか。
当時はネットも携帯も持っていない。
移動は徒歩か自転車のみ。
毎日家の近所を散歩していた。
無意味な縛りと感じるかもしれないが、今から振り返ってもそんなことはなく、毎日豊富な発見があった。
その頃のことで、自分しか見なかったであろうこと、知らないであろうこと、が沢山ある。
身の回りのことについて知ってるつもりでいたが、毎日身の回りで何が起きているかを私は何も知らなかった。
とはいえ、歩いても歩いても何処にも到達しようがないその頃の感触を今でもよく憶えている。

無意味なことをしている人を応援する必要などない。注目する必要もない。
ほっておくべきだ。
現代社会で無意味な行為は最大のリスクだ。
後からほぼ何も回収できないことが明白だからだ。
一般にはそういった行動を意識的にとる人間を、頭がおかしいとしている。

観えない処、静かな処に注意を向けると、誰かに観られている感触がある。
それは過去の自分、というと格好つけすぎで、実態は過去の自分として投影された今現在のおかしくなっている他人だ。
そこに、集注してみる。
この愉氣にはリスクがある。
おかしな人間を引き寄せてしまうからだ。
感応すると引き寄せられる。
しかしどうにもならない。
かつての私がおかしかったからだ。

無意味な愉氣には無意味な人が引き寄せられる。
天心の愉氣ではない。
子供が生まれ、育児をしてはじめてわかったことだけど、子供は無意味な時間を生きていない。
あるのは律動と変奏、まだ主題が提示される寸前の空氣が震える直前の圧縮されるような瞬間性。それは種が土に撒かれる瞬間の動作の計画された規則性と周期性を歴史の先端から、家系を過去に向かって共振させる時間であって、心理状態は祈りの時間と同質で、時間を根本的に変質させるための待機の時間。
それが子供の遊び。
これが天心という状態で、意味と価値はここから溢れ出てくる。

子供の住む時間は実に神秘的で、宗教性を無視して語れるのか疑問。
子供を、大人になる為のたんなる前段階と捉えるべきではない。

いずれにせよ、生の本義は苦しむためであり、愉氣によって苦痛を取り除くことは出来ない。
このことは肝に銘じるべきことだが、これは自分に対してしか銘じる氣はない。

2022年5月16日月曜日

感応と瞑想法

感応はどうにもならない。
何か事が起きる前に必ず感応が生じる。
その時点ではコントロール不可能。
管理の要求が生じるのは、感応した後の時間の裡。
何を管理したくなるのかというと、感覚。
それでもそれが、自分の感覚か他人の感覚かわからなくなる。
そもそも、新しい人にはじめて会う前からその人物と感応している。

テレビを消した後の余韻に集注してみる。
それも過去にスイッチを消した時の瞬間に対してしてみる。
正座して、過去の記憶の裡にあるテレビを消した瞬間の余韻に集注する、ということだ。
余韻とは自分の身体の裡側で減衰してゆく感覚の変化ということになる。
私はテレビ世代なので、社会と切り離される瞬間として、テレビを消す瞬間の身体感覚の変化をよく覚えている。
臍の緒を切られる瞬間の大衆化された感覚。
かなしくむなしい稽古だが、やる価値はある。
インターネット時代の今現在にテレビを消しても何も感じない。
この稽古をするには、せいぜい20年くらい前の感覚の記憶を呼び出す必要がある。
若い人にこの稽古は出来ない。

スマホの電源を切る瞬間は身体で捉えられない。
とりあえず画面を消す瞬間も。
むしろスマホの通知音が鳴ってぎょっとする瞬間が印象深い。
スマホによって常時接続の感覚を得たらしい。
掌に収まるほどにデフォルメされ縮小された社会だから常時接続できる。
ここは管理可能だ。
でもどうも本質的にはこのスマホの世界とは身体を切断出来ないようだ。

「今日は何も出来なかった」と思ったら、その日に集注する。
裡側で起きてることに過去が折りたたまれていくからだ。
何度も何度も繰り返すと、意味を産まなかった過去に向かう現在が無価値になる感覚を得ることが出来る。
この時間はゴールに向かってない。
さらにさらにその無価値な瞬間に何度も何度も集注すると、時間が重畳する。
意味の発生と消失の間隙に集注、というと聞こえがいいが、これは、ようするに人生の失敗の瞬間に集注するということで、だからそこでやっと社会から切り離される感覚が得られる。

以上の瞑想法はニートやひきこもりといわれている方々は毎日毎分毎秒自然に行っている。

ここで、ほんとうに本質的に人生を間違った経験があるかないかが問われる。
ちょっとした錯誤失策でなく、取り返しがつかないことをした経験、ないしはその状況に自分が関与した経験。
道を外れてしまった、という感覚。受動化された完了形。この線に乗ったらもう元には戻れない、という感覚。過去に対する認識。未来の消失。

問題は感応の発生であり、その源泉。
現在婚活や妊活をしている方々が真に求めているものは、感応の初発であるわけだが、これは意識的な管理執行は不可能。認識すら危ういと思う。
マッチングアプリといったものは感応というそもそも管理不可能なものを統括的管理下に置こうとするものであるが、自分は悪しざまには否定できない。
ただ、営利目的で設計されているシステムであるため、マッチングに至らない外側の時間は線上の時間へと意味を織り込めない。残り時間が少なければ少ないほど、そうなる。残り時間は生物学的に決定されてる。
時間を審査する最終審級がここにずれ込んでいるわけだが、必然としてこの時間は分子生物学の技術によって延長が図られようとしている。
ぐるぐる巻き取られる時間が、もう一度平たく引き伸ばされて直線になる。それをどこまでもびよーんと伸ばしていきたいらしい、ある種の方々は。

身体の裡には様々な点線面としての時間と感覚が混在してる。
時間と感覚そのものが混線しており、それが身体の様々な処に潜在している。意識は線形であり、だから一側に硬結が生じる。身体は非線形であり、だから身体上に硬結は現れたり消えたりする。
忘却の彼方などという言葉があるが、捉えて手繰っていくと、何故忘れていたのかさえ理解できない時間に遭遇する。
つまり、本人が忘れている処。
知らない処でなく、忘れている処。
忘れている処が誰かと知らないうちに共有された時、感応するようだ。

2022年1月17日月曜日

人称

息子が、自分のことを「僕」と言った。
2才9ヵ月。
それまでは基本的に「〇〇ちゃん」と自分の名前で自分のことを呼んでいたが、突然「僕」と。
その前に何故かたまに「あたし」と言っていた。
これも不思議だった。妻の真似をしたのか。

私は日常的には人称を「俺」と言ったりするが、「僕」とは言わない。
何故、息子は「僕」と言うのか。

きっと自分自身を言語野で把握する抽象度が一段上がったのだろう。
「僕」という人称には、性別と年齢が加味されている。
自分で自分の社会性を相対的に把握して表現しているのだろう。

こういったことは、身体と日本語があってこそで、そのどちらかが欠けただけで、存在は宙に浮いたままで、どこにも着地することはできない。
そして着地したなら、その土地と言葉に感謝して、その二つを全力で守るべきだろう。
それらは一度奪われれば帰ってこないし、そうなったら彼の存在はまた宙に浮いて天に帰っていくだろう。
そして我々の記憶からもすべてが永久に消失する。

子供の人称の把握なんて、なんてこともなく感じるが、民族の土地と言語がなければ絶対に達成されないということを再確認した。
文化というのはその上に咲く花だ。
花は散ってかまわないが、土地が痩せたら困るわけだ。

2022年1月6日木曜日

いやだとだめ

最近の息子は「いやだ!」「だめ!」ばかり。
2才になると「いやいや期」というものがやって来ると言われている。
この頃から徐々に自我の輪郭がはっきりしてくるようだ。

自分の裡からの欲求と外からの言葉とを、この年頃で身体の奥底で緊密に結び付けるべきと感じる。この靭帯が緩いと身体と言葉の濃度が均等にならないので、子供の目から見た将来の目測が危険なものになる。

この子供の欲求(大人から観るとほとんど合理性などなく理不尽な)はなるべく否定しないでおきたい。
それにしても、この年頃はいたずらも増えてこちらの体力を延々と削られる。
現在の息子はどうしても世界を部分的に否定したいようだ。

2才8ヵ月を過ぎたくらいからか、頻繁に否定辞を使うようになった。
「~じゃない!」とよく使う。
面白いのは「だめ、じゃない!」とか、否定の否定。
こちらの否定辞の行使はまた別の欲求のようだ。
言葉を一つ接続するだけで、意味が反転する面白さを知るのだろう。
その辺はほどほどにして欲しい。

2021年11月26日金曜日

風呂

自分でもお湯に浸かりながら、子供をお風呂に入れていた時、子供が騒いでしまったのですが、理由が分かりませんでした。

妻の指摘でお湯が熱いことにやっと氣づきました。
私が疲れていたんです。熱いお湯に浸かりたかった。
指導者として情けないことですが、これは非常に示唆的な出来事でした。

しかしこの時はじめて、「度」というものが腑に落ちた氣がしました。

自分の適温と子供の適温は違うということ。
当たり前のことなのですが、自分自身もお湯に浸かっていると、そして、自身が主体となって、お湯を観ているとなると、子供にとっての快の温度が、自分自身には不快にならざるを得ない、ということ。

子供と一緒に風呂に入る時、子供の快は私の不快。
落差のある二人の人間がひとつの場を共有する時、その裡一方が不快を引き受けると、もう一方が愉快になる。
これが今の私の「度」の理解。

野口先生は子供を風呂に入れる時には、熱い風呂にさっと短時間入れたという風なことが書いてある。
時間を詰めれば熱い湯を共有することができるような氣もするが、実際にはそんなに簡単にはいかない。
自分で自分の子供を、ある一定の時間特定の温度のお湯に入れるという行為は、感覚的な才能と同じくらいの経済力が必要になる。

つまりお湯に浸かる、二人の人間の身体の間の感覚的落差は経済的に決定されている側面があるということ。
それは私と息子の間でさえ。

現代ではスイッチ一つで風呂の温度が指定できるが、丁寧に風呂に入れている時間が無い。
日々の育児と家事で疲れているので、子供にあわせた、ぬるいお湯には入れない。
野口先生は子供を風呂に入れる瞬間だけに集注できたのでしょうが、私どもはそれ以前も以後も、子供にかかりきりです。
服を脱がすし、身体拭くし、着せるし、食事も作るし(子供用だけ別メニュー)、寝かせるし、明日もそれらを朝から晩までこなすのです。

整体を日々実践していくと、才能以前の経済力でつまずくことが多いのです。
これが現実です。