2022年7月6日水曜日

何処かにいて何かをしてる人

何もない、ということはない。
何もないわけない。
常に何かがある。

昔のことだけど、私はそこそこ大きな駅で夕刻以後の時間何度も駅前を往復して、会社帰りの人々の顔と動作を観察していたことがある。
一日に数百人くらいか。

仕事が終わっての家路。
帰途での表情。
疲れ切っていて、明日も仕事だ、早く家に帰りたい、という表情を皆さましておられた。
全員同じ表情で個体の区別はつかない。
こんな疲れる無駄な時間は早く終わらせたいと、呆然と足早に歩く。
帰途のこの時間は皆さま無意味であると無意識に認識していた。
数か月間私は駅前を何度も何度も往復して、何百人もの顔と動作を観察していた。

人の流れと反対に歩く。

彼らにとっては何もない時間なのだけど、その時間を裏側から観ると、意味が発生するわけです。
観察している私の側に顔と時間の認識に対する固有の意味が発生します。

疲れ切った方々は自分たちがインスパイアブルな存在で、自分の顔と動作が意味を産出していることに氣付いていないわけです。
自分たちの顔と動作の時間を裏側から観察されているなど、彼らは夢にも思ってないようでした。
時間の線というのは実は幾つもあって、そして顔や動作の観方も幾つもあります。
何もしてない、と思っている時でも、確実に何かをしています。
対象に働きかけています。

人口に対して一定の比率でおかしくなる人がいますが、おかしくなることにも才能がいります。
普通の人間はおかしくなることは出来ない。
鬱病は誰でもなれる。
鬱病になるのに才能はいらない。
誰でもなれるものは病氣とは言わない。
人間は誰でもどんな病氣にもなれるわけではない。
鬱病は病氣ではない。
アメリカ人が病氣だと指定したとして、日本人が従う道理はない。

1997年のことだけど、今年は車にもバスにも電車にも乗らないと決めたことがある。
21歳くらいか。
当時はネットも携帯も持っていない。
移動は徒歩か自転車のみ。
毎日家の近所を散歩していた。
無意味な縛りと感じるかもしれないが、今から振り返ってもそんなことはなく、毎日豊富な発見があった。
その頃のことで、自分しか見なかったであろうこと、知らないであろうこと、が沢山ある。
身の回りのことについて知ってるつもりでいたが、毎日身の回りで何が起きているかを私は何も知らなかった。
とはいえ、歩いても歩いても何処にも到達しようがないその頃の感触を今でもよく憶えている。

無意味なことをしている人を応援する必要などない。注目する必要もない。
ほっておくべきだ。
現代社会で無意味な行為は最大のリスクだ。
後からほぼ何も回収できないことが明白だからだ。
一般にはそういった行動を意識的にとる人間を、頭がおかしいとしている。

観えない処、静かな処に注意を向けると、誰かに観られている感触がある。
それは過去の自分、というと格好つけすぎで、実態は過去の自分として投影された今現在のおかしくなっている他人だ。
そこに、集注してみる。
この愉氣にはリスクがある。
おかしな人間を引き寄せてしまうからだ。
感応すると引き寄せられる。
しかしどうにもならない。
かつての私がおかしかったからだ。

無意味な愉氣には無意味な人が引き寄せられる。
天心の愉氣ではない。
子供が生まれ、育児をしてはじめてわかったことだけど、子供は無意味な時間を生きていない。
あるのは律動と変奏、まだ主題が提示される寸前の空氣が震える直前の圧縮されるような瞬間性。それは種が土に撒かれる瞬間の動作の計画された規則性と周期性を歴史の先端から、家系を過去に向かって共振させる時間であって、心理状態は祈りの時間と同質で、時間を根本的に変質させるための待機の時間。
それが子供の遊び。
これが天心という状態で、意味と価値はここから溢れ出てくる。

子供の住む時間は実に神秘的で、宗教性を無視して語れるのか疑問。
子供を、大人になる為のたんなる前段階と捉えるべきではない。

いずれにせよ、生の本義は苦しむためであり、愉氣によって苦痛を取り除くことは出来ない。
このことは肝に銘じるべきことだが、これは自分に対してしか銘じる氣はない。