2才の息子が公園で二人の小学生の女の子に遊んでもらった。
その子たちは二人で滑り台の頂上でお菓子を食べながらずっとおしゃべりをしていた。
息子はその二人の前を何度も行ったり来たりしたりして注意を引こうとしていたが、二人は無視していた。
息子はしつこくその場を離れないので、二人が降りてきて、息子を追いかけまわした。
しばらくすると、その内の一人が「動画をとってもいいですか?」と妻に聞いてきた。
了承すると、スマホで撮りつつ実況中継をしながら、追いかけまわす。
息子は嬉しそうにグルグル滑り台の周りを走っていた。
15分ほど撮影していた。
子供たちは飽かず疲れず追いかけっこをしていた。
印象的だったのが、二人の女子小学生が「可愛い」と一度も言わなかったこと。
昔の女子はとりあえず「可愛い」と言っていたが、言わなかった。
女子の「可愛い」という言葉は共同性の確認と言う説があるが、それがほんとうだとするなら、もう共同性を言葉で確認する必要はないんだろう。
言葉による瞬間的共同性の確認というより、動画の保存とその情景の補完的な言語描写により、時間の共有をバックアップするのだろう。
編集してバックアップ、バックアップして編集。
上手くいけば永遠に共有される動画を身体の外部に共有材として保存できる。
サーバーが火事で燃えなければいいね。
その女子は、スマホで動画を撮りながら、情景描写をしていた。
そして息子には決して触れなかった。
スマホが永遠性に直結していた。
このご時世に女子小学生を凝視して観察する機会が得られたのは僥倖だった。
年長者としては、彼女たちがテクノロジーではなく、芸術に触れる機会があればと思う。
また、子供同士であれば、身体に少しは触れるのが自然ではないかと思う。
最後に手を振って別れた。
私の運が良ければ、彼女たちに整体操法をすることもあるだろう。
彼女たちの背骨に触れた時に、私が何を感じるかまったく想像がつかない。