2020年6月28日日曜日

道具

1才を過ぎてから、道具を求めるようになった。
フォーク、スプーンを使いたがる。
突く、という動作が難易度が低いため特にフォークが好きです。
スプーンは掬おうとしても掬えない。

我々の使っている箸を使いたいようで、真似したがるが、当然難易度が高い。
持って振り回すだけ。
箸というのは日本文化の精髄のひとつと思う。

赤子と小児の境界は箸が使えるかどうかにある。
日本においては箸の使用法はテーブルマナーでなく、技術の修身を証明する。
手に職で食うに困らない、というやつの原初形態。

昔の日本にも匙はあったわけで、赤ちゃんには使っていたと思うけど、フォークに類するものはあったのだろうか。
いまは調べている時間も気力もないのですが、例えば江戸時代の日本人はどうやって赤ちゃんに食べさせていたのだろうか。

ちなみに、私はこの5年くらいはほとんど足袋で過ごしているのですが、たまに靴下を履くと凄い違和感を感じる。
靴下には足袋の解放感はまったくない。
明治の日本人は何故この感覚を簡単に捨てたのだろうか、と毎回思う。
皆そろって、着物も履物も一斉に捨てた。
何百年かそれでやってきたのに。
その時の違和感は、今の自分が感じている以上のものがあったと思うのですが、しかしそれにしても洗脳という水準以上の出来事でしょう。戦争に負けたわけでもないのに。不思議でならない。

話は飛びましたが、道具と人間との関係。
そこに係る民族性、その自覚に関心があります。
歴史的に連続性のある特定の道具が無ければ、民族性は自覚できないのではないかと思うわけです。
民族性によって自己認識できないならば、民族性に代わる自己認識のための道具は法と資本になります。

(追記)箸を最初に使用したのは日本人であるという説がある。何がなんでも中国発祥説を取りたいという人もいる。私としましては、今現在の動作から推測して観ていきたいのです。