赤ちゃんが聞いているのは、言葉ではなく、話しかける速度であり、それがそのまま意味となる。
観察していると、実際にその通り。
赤ちゃんはそう受け取っている。
昔は、われわれも皆そうだった。
そう受け取っていたはずだ。
われわれ、現在の大人にとっても、速度が意味だった。
言葉は聞いていない。
暖かいか冷たいか。
視線が合っているか合っていないか。
空腹に対する知覚。
尿意便意への知覚。
それらの急速な変化。
それらの急速な変化への周りの大人たちの同調と調整。それから分節。
忘れているが、それらは潜在意識でずっとわれわれを縛っている。
これら育児による潜在的な感覚の同調への開眼は、私の操法に甚大な影響を与えるだろうと思う。
野口整体は感覚が主体であるから廃れたのだと思うが、誰でも赤ちゃんの頃の初心では感覚主体で生きているのに、主観的感覚主体の健康法が廃れるというのは間違っている、と私は思う。