愉氣とは、身体を敏感にするためのもの。
それは病の消去の為のものではない。
朝であるとか、溌剌とした時に、これから活動しようという時になされるのが本来であると思う。
だとするなら、愉氣とは、その本質はいわゆるヒーリングではない。
昔は輸氣と書いた。
ある時期から愉氣となった。
定義したのは野口晴哉だ。
輸氣でも愉氣でも、変わらないのは、氣、だ。
野口晴哉が語の表記を変えた瞬間に、氣が変わったか。
氣が変わったから、語の表記を変えたか。
氣の表意は変化するものなのか。
変化しなければ、表記を変えないだろう。
とはいえ、その変化は野口晴哉にとって一生に一度の変化であった。
それ以降は表記を変えていない。
ひとつだけ言えることは、輸から愉に表記を変え、そこに氣を固定したことで、氣が、それ以来、整体に関わる者にとっては、人間的なものなった、ということだ。
輸氣は、物質であり、なんらかの形で物理的にスペースを占有している。
愉氣は、感覚であり、情感の集注。
病の消去にではなく、人間であることに集注すること。
そのこと自体が健康に至る道であることは、戦後の現実を直視すればわかることだ。