古写真が好きで集めたいのですが、妻が気味が悪いというので、なかなか収集に集注することができません。
この古写真も飾らないでくれと言うので、たまに眺めるだけで普段は飾っておりません。
写真は明治時代の医師と思われます。鍼師であり盲目であると思います。
右下に doctor とあります。
鶏卵紙に彩色されています。
この写真の構図は造られています。
手前の小物の配置角度など考え抜かれています。
この写真家にはすごい実力がある。
大きくは、円形と四角の窓と、人物の身体の曲線。
特に左上の窓と、鍼師の頭部から背部にかけての曲線のシンメトリックな対比と、その延長上にある右下のおぼんへの縮小された円形への視線の運動、この円形はそのまま鍼師の頭部と風呂敷へと分裂もしている。
後ろの襖が開けられているが、その位置が敷居を挟んで鍼師の頭部に対してほぼ等間隔になっている。
中心の線には畳の敷居があり、右には茶碗があり。左には二人の手がある。
一方でキセルと刀で斜めの線を動かし、背景の格子柄が風呂敷の唐草模様に溶け出しもする。
上部背景の明確な幾つかの基底となる線が、前景の生活雑貨の線に細分化し流出乱舞する。
つまり背景の建築物が前景の生活を産み出している、という画面構成になっている。
中心原理は変形された逆五角形へと還元される。
二つの頭部と風呂敷と火鉢と茶碗。
そして、ここは注意しておきますが、上記の美学的な視点は日本的なものではないです。
写真に映っている形象の配置は本質的には日本的なものではありません。
この写真は外国人が撮ったものです。
少なくとも現時点での私の眼から観て、どうでもよいものです。
そこには私は美を感じません。
外国人向けのエキゾティックなお土産として、こういった当時の日本人の生活が撮られて売られていました。
背景を知らなければ、ぱっと見た感じは確かに少し不気味です。
なので、実際にこの古写真は安く、3000円程で入手できました。
この鍼師はこの時、脈を診ています。
いや、聴いていると言ってよいでしょう。頚椎4番を倒して耳をつかって脈を診ています。
おそらく、カメラの方を向けと言われたのでしょう、頸の角度が少し変です。鍼師の表情が歪んでいるのは姿勢が苦しかったのもあると思います。
この着飾った女性も、自身の脈とその脈を診る鍼師を内観しています。
この表情…。
撮られることを前提に演出されているわけですが、この時の二人の身体の裡に生じている感覚はほんとうの現実です。
ここが本来の日本の中空の真実です。
この写真に私は感応します。
私の明治生まれの曾祖母は生まれつき盲目で、按摩として生きていました。
昨年初めて知ったことです。
母の父の母になります。
たまたま見せられた写真で眼を瞑っていたので、この人は何で眼を瞑っているのか聞いたら、按摩であったとのことでした。
江戸時代の按摩の技術はすごいもので、その頃には按摩の技の型があったそうなのですが、明治時代になり盲人救済のためということで、技術が簡略化され、型は失われたそうです。
おそらく、ほんとうの按摩の技術はとても難しく習得には才能と時間が必要だったのでしょう、すぐに憶えられて仕事に出来なければどうにもならない、ということで、型を捨てたわけです。
野口先生は、取り返しのつかないことをした、と言っていたそうです。
その頃の按摩の型はもう残っていないのです。
曾祖母の按摩の技術には、少しは古い型が残っていたのでしょうか。
曾祖母の按摩を一度くらいは受けたことがあるだろう祖父は去年亡くなりました。
そのことについて印象だけでも聞いてみたかったのですが、もう聞けません。
私は日本人ですので、この写真を観ると、身を切られるような辛さを感じます。
昔はこの国にあった多くのあり方が、今では失われたことに対してです。
多くのモノ、ではないのです。
モノではなく、人のあり方です。
祖父の時代にはあったことが、現在の私には手が届かないことになっています。
いくら金を払おうが、もう取り返せません。
これから、この国には経済的理由により大量の移民を受け入れるそうですが、リベラル思想で何をどう取りつくろおうが、外国人にはこの感情は生じません。
悪意があろうが、なかろうが、彼らは躊躇なく日本の文化を捨てるでしょう。血が繋がっている人間ですら捨てるのです。
ほとんどの外国人は、金にならないなら、何も感じずに何も考えずに排除するでしょう。当然のことです。
現在の私にはまだ、昔の日本人の古写真を、ただ観てただ感じる、ということはできます。日本人が捨てたものを惜しむことはできます。それについて書くこともできます。
でもきっと、そのうちにこの程度のことですら「差別」とされて許されなくなるのではないでしょうか。