2022年1月17日月曜日

人称

息子が、自分のことを「僕」と言った。
2才9ヵ月。
それまでは基本的に「〇〇ちゃん」と自分の名前で自分のことを呼んでいたが、突然「僕」と。
その前に何故かたまに「あたし」と言っていた。
これも不思議だった。妻の真似をしたのか。

私は日常的には人称を「俺」と言ったりするが、「僕」とは言わない。
何故、息子は「僕」と言うのか。

きっと自分自身を言語野で把握する抽象度が一段上がったのだろう。
「僕」という人称には、性別と年齢が加味されている。
自分で自分の社会性を相対的に把握して表現しているのだろう。

こういったことは、身体と日本語があってこそで、そのどちらかが欠けただけで、存在は宙に浮いたままで、どこにも着地することはできない。
そして着地したなら、その土地と言葉に感謝して、その二つを全力で守るべきだろう。
それらは一度奪われれば帰ってこないし、そうなったら彼の存在はまた宙に浮いて天に帰っていくだろう。
そして我々の記憶からもすべてが永久に消失する。

子供の人称の把握なんて、なんてこともなく感じるが、民族の土地と言語がなければ絶対に達成されないということを再確認した。
文化というのはその上に咲く花だ。
花は散ってかまわないが、土地が痩せたら困るわけだ。

2022年1月6日木曜日

いやだとだめ

最近の息子は「いやだ!」「だめ!」ばかり。
2才になると「いやいや期」というものがやって来ると言われている。
この頃から徐々に自我の輪郭がはっきりしてくるようだ。

自分の裡からの欲求と外からの言葉とを、この年頃で身体の奥底で緊密に結び付けるべきと感じる。この靭帯が緩いと身体と言葉の濃度が均等にならないので、子供の目から見た将来の目測が危険なものになる。

この子供の欲求(大人から観るとほとんど合理性などなく理不尽な)はなるべく否定しないでおきたい。
それにしても、この年頃はいたずらも増えてこちらの体力を延々と削られる。
現在の息子はどうしても世界を部分的に否定したいようだ。

2才8ヵ月を過ぎたくらいからか、頻繁に否定辞を使うようになった。
「~じゃない!」とよく使う。
面白いのは「だめ、じゃない!」とか、否定の否定。
こちらの否定辞の行使はまた別の欲求のようだ。
言葉を一つ接続するだけで、意味が反転する面白さを知るのだろう。
その辺はほどほどにして欲しい。