柳の木の下に立つと、全身に氣が走るそうです。
花見の際、立派な柳の木があり、その下に立ってみました。
「氣が走る」というのはよくわかりませんでしたが、氣が上から下に流れているのは感じました。
そしてなにやらそこだけぼやーっとしています。
以前、秋葉原の神社の前にあった柳の木の下ではなにも感じませんでした。
桜で氣が乱れていたからでしょうか。
今回はよくわかりました。
2018年3月27日火曜日
2018年3月15日木曜日
子宮
感応しなければ変化しないと言われている。
先日、頭を使わなければならないある用件があり、自分で氣が上がっていることがわかっていた。
なのに何故かその時、重心が下がっていった。
対面に座っている女性の子宮を自身の腹で感じていた。
感応する理由があって感応していたのだが、重心が下がり、血液が腹部に集まる感覚があり、これが子宮か、と思った。
子宮の血行がよく、腰椎3番右1側が弛んでいれば、女性はそれでよいと言う意味が体感できた。
生物学的な性別と内観的な性別は違うだろうと思う。
同性愛者を差別する氣持ちはないですが、そういった傾向性を持つ子供が、メディアで流布される同性愛者のステレオタイプに同一化する前に、教えるべき内観的な性差とその超越が存在していると思います。
自分としては、トランスジェンダーやクイアといった外来語をすぐさま取り入れて、性差に関する違和感をある特定の政治的な意図を持った概念に押し込むことには反対の立場です。
そこには慎重であるべきです。
2018年3月6日火曜日
両手を使う
片手で押さえるものではないと聞いてはいましたが。
先日、ある女性の足の四指を押さえる機会があり、最初なんとなく、ふと片手で押さえていたところ、何か違うと思い、両手で触れてみた。
すると、その自分の身体の動きが、茶碗と箸をもってご飯を食べる動作と重なった。
その時、この動きかあ、と得心した。
まったく同じ動きと感覚だったから。
基本的に日本人は何でも両手で行うことで、中心を捉えるのだろう。
考えてみれば、インド人は片手で手づかみで食事をする。
西洋でも数百年前までは手づかみだったと聞く。
韓国は茶碗をもたない。
食器をもって食べるのが、マナー違反である文化は多い。
キリスト教徒が十字を切るときも、片手で切っている。
日本では神様の前では両手を合わせる。
先日、ある女性の足の四指を押さえる機会があり、最初なんとなく、ふと片手で押さえていたところ、何か違うと思い、両手で触れてみた。
すると、その自分の身体の動きが、茶碗と箸をもってご飯を食べる動作と重なった。
その時、この動きかあ、と得心した。
まったく同じ動きと感覚だったから。
基本的に日本人は何でも両手で行うことで、中心を捉えるのだろう。
考えてみれば、インド人は片手で手づかみで食事をする。
西洋でも数百年前までは手づかみだったと聞く。
韓国は茶碗をもたない。
食器をもって食べるのが、マナー違反である文化は多い。
キリスト教徒が十字を切るときも、片手で切っている。
日本では神様の前では両手を合わせる。
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